第8話
しかし。
その穏やかな空気を、突如として切り裂くような異様な気配が、二つ、正面から迫ってきた。
「婚約など許さん! お嬢様を返せ!」
鋭い声が、響き渡った。
人垣を無理やりかき分けて現れたのは、金髪を激しく揺らす褐色の肌の女性だった。
頭には黒い兎の耳がピンと立っており、どこを守っているのかわからないほど露出度の高い皮鎧が、彼女の引き締まった肢体に張り付いている。
腰には長剣が下がっていた。
彼女はルクスを真っ直ぐ指差し、牙を剥いた。
「サーラお嬢様! お迎えにあがりました! 今すぐ魔王城に帰りましょう! こんなところにいてはダメです!」
「よさないか、ラヴャーナ!」
サーラが制止するも、ラヴャーナは聞く耳を持たない。
「お嬢様がこんな人間風情と……!」
その言葉が終わらないうちに、もう一つの影が飛び出してきた。
「おうおう! 言ってくれるなぁ!」
男勝りな、よく通る声。
長い茶髪を三つ編みで二つにまとめ、ドワーフ族の血を濃く受け継いだ小柄な女性だった。
身長はルクスの半分ほどしかない。
顔立ちは幼いのに、口を開けばノコギリのような鋭い歯が覗き、獣のような獰猛さを放っている。
ディローダ。
ルクスが一緒に戦ってきた、「家族」のような存在だった。
「うちの坊ちゃんが平和を願っての決断にケチつけるたぁ、許されねぇ!」
ディローダはラヴャーナに拳を向けて、戦闘の構えを取っていた。
ルクスは反射的に大声を張り上げた。
「ディローダ! 絶対手を出すなよ! 絶対だからな!」
「わかってらぁ! 一発でのしちまったら、楽しみがいもねぇからなぁ!」
(だから挑発するなって……!)
ラヴャーナが一歩前に出て、
「魔王軍の倒されていった仲間たちの恨み、ここで返してくれよう!」
右手の人差し指をルクスに向かって突きつけた。
ディローダも一歩前に出て、
「その業がてめぇの細っこい腕で持ち上がんのか? ああん?」
歯をむき出しにした。
ラヴャーナを睨み上げる。
ルクスはそんな二人から目を離さず、サーラに向けて囁いた。
「おい、サーラ。どうにかできないのか?」
しかしサーラは肩をすくめ、どこか楽しげに笑うだけだった。
「ま、実際何千と殺されてるからな。婚約くらいで止まるわけがないだろうな」
「おい! そんなことでいいのかよ?」
「俺は戦争をやめたいとは言っていない。あいつ以外はどうなっても構わない」
その言葉は淡々としていた。
「はぁ? あいつって……」
言葉が途切れた直後、
「静まらんかぁ!」
怒声が響き渡った。
重い金属音が地面を震わせ、騎士団の甲冑が近づいてくる。
その場にいた全員が、一斉に王城の方を向く。
そしてルクスとサーラ以外、すぐさま跪いた。
二人が地に足を着けなかったのは、その声の主の目が「お前たちはよい」と物語っていたからだった。
王と魔王が、騎士団に囲まれて歩み寄ってくる。
二人の表情は、この騒ぎなど最初から予想していたかのように落ち着いていた。
やがてルクスとサーラの目の前で足を止めると、
王がルクスの肩に、魔王がサーラの肩に、それぞれ手を置いた。
そして、二人は声を合わせて、
「「二人は昔から愛し愛されの仲だ、よいな!」」
その言葉は、滑らかで、淀みなかった。
ルクスは目が泳ぎ、どこを見ていいのか分からなくなった。
頭の中が真っ白になる。
(もう……やだ)
誰にも届かない小さな声が、彼の中で何度も駆け巡った。




