元通り、という言葉
僕の目の前である人物が落ちてきた、という説明が続いた。通行人も何人かいたらしい。空から白い影が落ちてきて、まさに僕の目の前で粉々になったということだった。僕はその血を浴びたまま、その場に座り込んだという。人々は悲鳴を上げて騒然となり、救急車が来て、パトカーが来るなど大騒ぎになった。
僕はまともに意識も保てず、ぼんやりと座り込んでいたらしい。警察と救急隊員が「大丈夫ですか」と尋ねた瞬間、僕は気を失い、突然全身から白い煙が立ち上った。動画で見たことがあったから、僕にも分かった。TSウイルスの発作だった。そして僕は病院に運ばれたのだ。
「な……今日、何日だ?」
「5月17日です」
「え……は?」
何か時間が経っていた。僕は夜に倒れて、その翌日に目が覚めたとばかり思っていた。もちろん現代人は日付の感覚が希薄で、僕ももちろん例外ではなかった。斎藤は僕をじっと見つめると言った。
「あの……今、何曜日だ?」
「火曜日です」
「は?」
僕が病院に運ばれてから5日以上が経っていた。ずっとベッドに横たわっていたということだった。あいつは自分の銀色の腕時計を見ると、僕を見て言った。
「講義があるので、そろそろ行きますね。医者がちゃんと説明してくれると思います」
「あ、ああ……そうか」
僕は間抜けみたいに、釈然としないまま頷いた。あいつは個室のドアを開けながら言った。
「自殺したあの人、TS発病者だったみたいです」
「……」
あいつはその言葉を残して出て行った。僕は今のこの状況がどうしても理解できなかった。全身が痛くて指一本動かすのもつらかった。さっきはあまりに驚いてあちこち触ってみたが、触るたびに痛みが走った。
僕の目の前でTS発病者が自殺した。そしてその人は粉々になった。そしてそのウイルスが僕に移ってきた。そう受け止めていいのだろうか? 頭の中がぐちゃぐちゃだった。
酒を飲んで記憶をなくして目が覚めたら女になっていたなんて、僕の知っているどんな滅茶苦茶な小説でもこんな展開にはならなかった。しばらく悩んでみても、どうしても何も考えが浮かばなかった。最初に浮かんだ考えはただ一つだけだった。
『家族に何て言えばいいんだ?』
母、父、弟をはじめとする家族に、どう話せばいいのか見当もつかなかった。もちろん想像してみたことがなかったわけではない。TSウイルスというものに初めて触れたとき、もしそんな状況になったら自分がどうするかについて考えたこと、当然あった。
ただオナニーでもしてみて、一回セックスでもしてみて、どんな感じか知りたい。そんな考えで終わっていた。だがいくらそうでも、男と寝るなんてことは受け入れられそうになかった。そして何より、そんなことが自分に降りかかるはずがないと当然のように思い込んでいた。
だがいざこんな状況になってみると、他のことは何一つ考えられなかった。
「なんで、なんで僕なんだよ……」
涙が出た。こんな稀薄な奇跡など望んだこともなければ、願ってもいなかった。僕はただ小説が書きたかった。悔しかった。小説もろくに書けなくて死にたいと思うような、就職も当然できない人生だから、ただでさえどん底に落ちた気分で毎日を過ごしていたのに、今度はろくでもないTSとかいう奇妙なウイルスにかかってしまった。
夢だよな? 夢だよな? 当然夢に決まってる!
いくら考えても僕は目を覚まさない。僕はそのままだ。変わったままそのままだ。僕はしばらく泣いた。泣いているうちに、何が何だか分からなくなった。今自分がTSとかいうくだらない病気にかかったからこうなっているのか、それとも単に自分の境遇が惨めなのか分からなくなってしまった。もともと涙というのはそういうものだった。泣いていると結局、泣くという行為そのものが重要になる。悲しみの重さなんてものは、涙を流した分だけ軽くなる。
「うっ……ぐすっ!」
僕は布団をはねのけた。泣く意味が薄れれば、自然と涙は止まる。悲しいということだけを三十分以上考え続けるのは、それ自体が苦行だった。泣きながらも腹が減るとか、トイレに行きたいとか、タバコが吸いたいとかいう考えも浮かぶ。それが人間だ。そういう考えが浮かぶから。
不思議と元気が出てきた。
「クソったれ……」
それでも汚らしい気分までは消えなかった。
―ガラッ
「雪原さん、お目覚めですか?」
白衣を着た医者が入ってきた。おそらく僕が目を覚ましたことを斎藤が伝えたのだろう。僕はこの病院がどこにあるのかも分かっていなかった。僕は制服を着て働く人たちに対する恐怖心のようなものがあった。ぞっとするというほどではなかったが、そういう人たちの前に立つと妙に萎縮してしまう。
悪いことをしていなくても警察の前に立つと縮こまってしまう僕の小心者な面を見ればそうだ。医者だって例外ではない。特に青い服を着た外科医を見ると、解剖されそうな奇妙な恐怖心すら覚えた。
言っただろう、僕は普通じゃないんだ。こんな考え以外にも、みっともない面が何百とある。僕はとても慎重に、その医者に向かって尋ねた。
「ここ……どこですか?」
「国立特殊疾患研究センターです。国内のTSウイルス発病者のための病院です。まあ、といってもこの病棟一つだけなんですが……」
世界的に話題にはなったが、TS患者自体は世界中を合わせても千人にも満たない数だった。何をやらせても遅い日本に、TS発病者専用の病院施設が整っているという事実は、妙に僕を驚かせた。
しかも東京の病院だと聞いて、はっと我に返った。学校は太宮市にあった。太宮と東京はどんなに急いでもバスで一時間はかかる距離だった。そう考えると、ふと浮かぶ考えがあった。斎藤の奴、まだ授業期間中なのに授業を全部サボって僕のそばにいたのか? 4.5以外は成績のうちに入らないという感じで大学に通っていたあいつが?
「僕がなんで……こんなことに?」
「感染したんです」
「だからなんでですか」
「それは僕にも分かりません」
その言葉に、僕は急に言葉が詰まった。医者は僕を見下ろすと頭をかいた。急に腹が立った。
「専門病院だって言ってたじゃないですか。その……TS患者専用の」
「それはただ病棟だけ用意されてるってだけですよ。TS患者なんてどんなに多くても知れてるでしょう? そもそも国が用意した施設に医療病棟一つ新設して、体裁だけ整えたものです。それに僕は精神科の専門医で、内科や外科は専門外です。はあ、僕もあちこちたらい回しにされてここに来ただけなので、あまり責任感みたいなものは期待しないでください」
「……本当に医者ですか?」
あまりにも軽率で不親切な態度に、僕はやや棘のある口調で言った。まあ結局のところ、この地獄のような島国で起きることなんてどれもこんなものだ。ただの体裁だけの行政と変わらない。国内にTS患者は多くても十人にも満たない。
「それに、特に病院の助けが必要というわけでもないんですよ。そのTSウイルスってやつは。そもそもウイルスなのかどうかも分かりませんが。ただこの状況に適応するための療養所みたいな役割です」
「適応? 元に戻る方法とかは……」
「ありません」
当然分かっていた答えだった。だが言葉で確認させられると、何かこみ上げるものがあった。自分のことじゃないからってこんなに軽く言う医者の顔を、おろし金ですりおろしてやりたいと思った。女になることが死ぬほど嫌だったわけではない。ただ単に嫌だった。変化というものが嫌で、世間の人々が自分を見る目が変わることが怖かった。
正しく前向きに生きてきた人生ではなかった。だがそんな人生だとしても、勝手に変えられていいわけではなかった。僕は元に戻りたかった。何かが変わって、何かを一から始めなければならないことが本当に怖かった。戻りたい。元の生活には二度と戻れそうにない、この状況が怖かった。
僕がみっともないと罵ってもいい。だが人は変化を望まない。冒険心の強い人間もいるだろうが、残念ながら僕はそういう人間ではない。僕はこの状況が不愉快で惨めだった。僕が今にも泣き出しそうな表情になると、医者は椅子に腰かけて説明を始めた。
「TSウイルスに感染すると、身体は細胞単位から再構成されます。筋肉、骨、臓器全部変わります。じっとしているのは脳だけです。いや、脳も少し変わるんだったかな? うーん……それはよく分かりませんね。とにかく、TSウイルス自体はまだ研究すら試みられていませんが、このプロセスは本当に完璧です。人為的に何か手を加える必要が一切ありません。痛みも次第に消えていくのを感じるはずです」
その言葉通り、最初は激痛が走ったが、次第に体の機能が元の状態を取り戻していくようだった。医者は僕が依然として元気がないのを見て、何か思いついたのか、にやりと笑って言った。
「まあ、それでも国から支援が出るところなので、入院費の心配はしなくていいですよ。よかったですね?」
「よかったって何が!」
「言い方がひどくないですか?」
僕が腹を立てて叫ぼうとすると、病室のドアを開けて誰かが入ってきた。長身でがっしりした体つき、短いがよく似合うスポーツ刈りをした男だった。あの顔は僕もよく知っていた。顔立ちは整っている方だが、全体的にワイルドな雰囲気だった。まさにマッチョ中のマッチョという感じだった。僕の知っている人の中で、あんな顔をした人は一人しかいなかった。
「和樹さん?」
「ああ、付き添いの方ですね」
「今こんな目に遭って気持ちが相当参ってるだろうに、医者ともあろう人がからかってるんですか? よかった? よかったなんて言葉が出てくるんですか、今?」
「あ、いや……そうじゃなくて……ただ知っておくべきことがあるので……」
和樹という人は、自分の気に入らないことがあれば絶対に文句を言わずにいられない人だった。そして不義理を我慢できない。斎藤とは違う意味で、まっすぐな人だった。よく言う、竹を割ったような性格だった。医者は和樹と向き合ったまま、やや気圧されたように言った。
「精神科の専門医として、雪原さんの状態をチェックするためにやむを得ず……」
「チェックするためにわざわざ攻撃性を引き出すよう挑発してるんですか? 先生、僕と今、冗談言ってるんですか?」
和樹の目つきがぞっとするほど鋭く光った。こういう表情をすると、相手はたいてい尻尾を巻く。態度を見ると何かの組の人間みたいだが、実はこの人も結局僕たちと同じ、小説家志望なのだ。いつも冗談で言うことだが、この人は学科選びを間違えた。警護学科か何かに行っていれば、要人警護のトップにまで上り詰めていたであろう威圧感だった。
最近、もともとあった心臓の部分が痛み始めた気がします。更新できなくてすみません。




