奇跡か、災いか
僕はその日、酒をたくさん飲んだ。徳田と別れる直前、あいつが僕に妙なことを言った。
「なあ、俺がなんであんなにTSに夢中なのか分かるか?」
「は? お前がただの変態だからだろ、何を……」
あいつも、僕も少し酔いが回っていた。まだ寒い三月の夜だった。珍しく空には星がたくさん出ていた。あいつと僕はタバコを吸っていた。
「もしTSにかかったら怖いから夢中になってるんだよ、この阿呆」
「何のたわ言だそれ」
「お前、宝くじ当たりたいって死ぬほど願ってる奴が当たるの見たことあるか?」
「何のクソみたいな理屈だよそれ」
僕が眉をひそめて言うと、あいつは首を横に振った。
「元々奇跡ってのは、切実に願ってる人間には訪れないんだよ。むしろ大して興味もない見当違いの奴のところに行くんだ、例えばお前みたいな」
「は? TSは何だよ、意味不明なこと言ってんじゃねえよ」
「ふふ……お前TSになって輪姦された挙句、妊娠フラグ立てたらマジ笑えるな」
「このイカれた野郎が……」
僕が本気で振り回すものを探していると、あいつはタバコを弾き飛ばして走って逃げていった。僕はあいつの後頭部に向かって中指を立ててやった。実に不愉快な言葉だった。
TSウイルスは確率だけで見れば数千万分の一の確率で発病するものだ。確率的に見れば宝くじに当たる方がまだ早い。宝くじは何も考えずに買った奴らも外れる。世の中はそういうふうにできている。和樹さんの言葉によれば、この世界は唯物論に支配されている。TSウイルスもいずれそういう文脈で説明できる時代が来るだろうと言っていた。一時期それが世間の話題になったことがあった。
だが生きることは何も変わらなかった。男になろうが、女になろうが、生きることは苦しい。しんどくて辛いことだ。
僕は家に帰る道であいつに出会った。
「あ?」
「こんばんは」
時刻は十二時、僕はあいつに出くわした。斎藤、今日僕のメンタルをズタズタに打ち砕いたあいつだった。僕は入学が早く、あいつは二年下の後輩だった。明らかに後輩だった。実のところ合評の時間に会わなければ、あいつは大抵礼儀正しい奴だった。口数が少なく、何事にも一生懸命で、うまくやるから教授たちにも印象がいい。
「どこ行くんだよ?」
僕はタバコをくわえながら言う。明日は土曜日だから、寮生は家に帰ったり、一人暮らしの学生は僕のように酒を飲んだりする。あいつはこんな真夜中にジャージを着たまま、どこかへ向かっていた。
「運動してきたんです。帰って少し書こうかと」
「ああ……そう」
あいつは本当に一生懸命生きている。顔は整っているが、どこか暗い表情が、あいつのなんというか、冷めた印象をより際立たせている。実際、学科内はもちろん、他学科の学生にも人気が高い。こいつが一体なぜ小説を書いているのか、まったく理解できなかった。勉強も熱心にやる。人文学的な知識も十分すぎるほど持っている。しかも僕たちにはまったく関係なさそうに見える運動も毎日やり、毎日決まった時間に文章を書く。あいつの日課はすでに学科内で有名だった。
堕落と放縦の巣窟である文芸創作学科に入って、一人だけ真っ当な生活を送っていた。あいつは僕の前に立ち尽くしていた。背も僕より高かった。182くらい、本当にムカつく。完璧な人間を見ていると、僕の歪んだ性格は抑えきれないほど歪んでいく。無性に意地悪をしたくなった。
「おい、酒飲むか?」
「酒ですか?」
「そう」
あいつが酒を飲むところを一度も見たことがない。新歓や卒業パーティーの打ち上げに来たのも見たことがない。あいつが新入生として入学した頃、面倒くさい上下関係が残る僕たちの学科の打ち上げへの参加を強要されたとき、あいつはこう答えたという。当時の学生会長の言葉に、あいつはシンプルに答えた。
『小説書きに来たので』
『お前、どこかの授業で提出することにでもなってるのか?』
『いいえ』
『じゃあ何でそんなに急いでるんだ?』
『小説を書きに来て小説を書くと言ってるのが、何か問題ですか?』
その言葉に学生会長は一発食らったような表情になり、あいつは悠然と小説を書きに行った。その言葉に恥をかかされ、憤慨した先輩集団はあいつが書いた小説を回し読みした。面と向かっては言えず、陰で「小説マジで下手だったな、みっともない、ケケケ」みたいなことを言おうという魂胆だった。先輩集団が卑劣なのは昔も今も変わらない。だが小説を読んだ先輩たちは、頷くしかなかった。
僕はその時休学中だった。こいつ、小説がうまい。このどうしようもない連中の集まりである文芸創作学科で通用するたった一つの法則はそれだった。小説がうまければ、生意気でも許される。
文章を書き、授業を受け、運動をし、本を読み、健全な習作生が持つべきすべての姿勢を備えていた。僕は正直、ただ口をついて出ただけの言葉だった。酒でも飲もうと誘ってみたところで、こんな奴が僕のように在籍年数だけ長くて文章の書けない人間と酒を飲むはずがなかった。
「いいですよ」
「え?」
だからそんな返事が返ってきたとき、僕は戸惑うしかなかった。僕は呆気に取られたまま、別の店へと向かった。
さっき言ったように僕は少し酔っていた。だからあいつと店に行ってから後のことは記憶がない。
気がつくと部屋の中だった。どうやって帰ってきたんだろう。斎藤と会ったところまでは覚えているが、それ以降何があったのかはまったく記憶になかった。胃がむかつく。起き上がろうとしたが何かおかしかった。ベッドの感触も、天井の模様も何かおかしかった。
ここは僕の部屋じゃない。そして隣には誰かが僕を見つめていた。
「う、うわあ! ぐああ!」
最初の「うわあ」は驚きで、二度目の「ぐああ」は痛みのせいだった。全身を誰かに刃物で切り刻まれたようにズキズキと疼いた。僕は体を起こすこともできず、痛みに震えた。
「起きましたね」
「お、おい……あ……ここどこ? 何だよ?」
「病院です」
酒をたくさん飲んだせいか、声が少しおかしく出た。目の前には斎藤がいつもと変わらない落ち着いた表情で僕を見つめていた。あいつの眼差しは少し怖い。感情表現がほとんどない、無機質な感じだった。
「何だよ……お前、俺を殴ったのか?」
「いいえ」
僕は何か煩わしいものが顔に垂れかかるのを感じた。何か黒いものが、髪の毛のようだった。体も何かおかしかった。何と言えばいいか分からないが、何か異様な感覚だった。体が燃えるように痛かった。
「あ……痛い……」
「医者呼びましょうか?」
「おい……俺が何で病院に……うっ……」
話す気力もなかった。あいつは僕をしばらく見つめると、引き出しの上にあった手鏡を僕に向けてくれた。その中には何か違う、僕に似ているようで何かが違うものが僕を見つめていた。長い黒髪に、白い肌をしたある女の子が僕を見つめていた。
「TSウイルスの発病です」
「え?」
「言葉通りです」
「ちょ、ちょっと待って、待ってくれ……」
何だよ、何だよこれ。何の狂った話だ? 酒飲んで記憶が飛んだと思ったら病院で目が覚めて、鏡の中では見知らぬものが僕を見つめている。僕は素早く自分の股間を探った。なかった。ついさっきまで冗談交じりに「男が終わる」だの何だの言っていたのに、本当になくなってしまった。何もなく、代わりに空虚な感覚の何かが触れた。僕は全身を貫く痛みすら忘れた。僕は上半身を軽く触ってみた。少し膨らんではいたが、何かとんでもないグラマーというほどではなかった。
「あ……胸はないんだな」
「……」
斎藤が僕をあきれた目で見ていた。TS発病したと聞いた途端、自分の体をやたら触りまくる姿が見苦しく見えたのだろう。僕は顔が一気に熱くなった。
「あ、いや、そうじゃなくて……ただないなって、何でそんな顔で見るんだよ?」
「ただ見てるだけですけど」
斎藤は僕を見つめると尋ねた。
「僕、帰ってもいいですか?」
「え? あ……」
僕はそのクールな態度に呆気に取られた。あいつは立ち上がると、病室のドアを出て行こうとした。こいつ、知らなかったがちょっとおかしい。道端で会った人でもこんなに素っ気なくはないだろう。先輩が突然TSにかかって目を覚ましたのに、帰ってもいいかだと? 頭がおかしいんじゃないか? 僕は急にこいつが薄気味悪くなった。
他人がどんな状況に陥っていようが自分のしたい行動だけをして、まったく他人の感情を理解できない存在を指す言葉なら、耳にタコができるほど聞いていた。
こいつ、サイコパスかもしれない。だがどうであれ、今そばにいるのはこいつしかいなかった。
「おい、おいおいおいおい!」
「はい?」
「何なのか説明しろよ、この気狂いが!」
「覚えてないんですか?」
「ああ、何にも覚えてない! 説明してみろ」
「自慢げに言いますね」
突然神経を逆撫でする発言に僕は拳を固く握ったが、すぐに手を開いてしまった。指の関節一つ一つまで全部痛かった。あいつは僕が見つめると椅子に座った。
あいつと僕は店に行って酒を飲んだ。何の金があったのか、僕が刺身を食おうと言ったらしい。せっかく刺身が出てきたのに焼酎を一杯飲んだ途端、僕は突然わけの分からないことを言い出し、いくらも経たないうちに潰れたようだった。僕はずっと「俺みたいなクズは死ぬべきだ!」と叫びながら大声で騒ぎ立てていた。そしてあちこち走り回り、斎藤はそんな僕を無理やり押さえつけるか、説得して帰らせるか悩んでいたという。あいつは穏やかに話していたが、突然とんでもないことを言った。
「先輩の目の前で誰かが死にました」
「は?」
「誰かが死んだんです」
「あ、いや、いや、それ何の……何の話だ? ちゃんと……ちゃんと説明しろ!」
痛みのせいか声がかすれ続けた。僕は頭がガンガン鳴り響くようだった。
「投身自殺でした」
これは一体何の話だ?
最近、本当に暑い夜が続いている気がします。扇風機一つだけを頼りに生きている僕にとっては、文章を書くのがとても大変な夜です。本当に暑いです。この文章を読んでくださっている皆さんが、暑くありませんように祈っています。




