祝福と暴力の間で
「それで飛び出してきたのか?」
「ああ、クソが……」
居酒屋で焼酎を飲んでいた。ボロクソに言われようがどうだろうが、合評のある日は酒を飲む。それが目の前にいるこいつは何がそんなに楽しいのか、ゲラゲラ笑っていた。僕にはこいつに一喝する気力すらなかった。低学年の頃はまだ先輩たちに批判されるだけだったから、それでも良かった。「先輩たちだから、僕の知らない何か文学的な世界の話なんだろう」という気持ちが働いていたせいだ。
だが後輩たちにボロボロに叩かれると、僕の文学的プライドも、人間としてのプライドも徹底的に踏みにじられた。本当に死にたかった。
「何だよ? 斎藤にやられた先輩なんて一人や二人じゃないだろ」
「あいつの名前を出すな、頭が痛くなるから」
「この前、群像新人文学賞の最終選考まで残ったじゃん。あまりにも革新的すぎて落ちたんだろ、多分」
そう、分かっている。あいつは天才だ。天才な上に努力家だ。後輩のくせに腹立たしいほど人文学的な素養を備えている。酒ばかり飲みながら口先だけで文章を書いてきた僕とは、質的に違った。認めるしかなかった。目の前にいるこいつは僕の同期だった。去年一年の休学を終えて復学したこいつは、こちら側では異端児扱いされているジャンル小説に打ち込んでいた。実力のほどは知らないが、なろうだかなんだかいうサイトに連載して稼ぎもあるという、いわば中途半端に売れているそんな作家だった。
こんな奴の小説に金を払って読むなんて、あのサイトにいる連中は変態か精神病者に違いなかった。僕が知る限り、こいつは成人向け作品を連載していた。
「お前、なんで小説にあんな、ちんこ握りつぶしみたいなの入れたんだよ?」
こいつは僕の小説を読んでいた。だから昼間、斎藤が指摘していたあの過激な描写を知っていた。こいつは純文学というものを知らない。知らないというより、知らないふりをしている。こいつは何がそんなに面白いのか、ケラケラ笑っていた。ああ、腹が立つ。焼酎の瓶であいつの頭を割ってやりたい。
「語り手が内的葛藤の深化の末に、自らの男性性を自分の手で去勢するあの圧倒的な場面を、下品なちんこ握りつぶしなんて言葉で呼ばなきゃいけないのか?」
僕が怒りに任せて叫ぼうがどうしようが、あいつはゲラゲラ笑っていた。あいつの名前は徳田といった。名前だけは日本共産党の初代書記長だった人物と同じだったが、近現代史への関心なんてこれっぽっちも持ち合わせていない奴だった。その上、徹底したロマン主義者だった。何かと我が学科の異端児のような奴だった。
実際こいつはうちの学科のマッドサイエンティストだった。こいつは文学の自由を叫びながら一年生のとき、小学生を強姦する話を書いてきた前科があった。本人いわく純愛物だとか何だとか言っていたが、誰一人納得していなかった。何より衝撃的だったのは、その度胸に感心した教授が、出席日数不足にもかかわらずこいつにA+の成績をつけたことだった。何かとこの学科は変わり者ばかりが来る学科だった。もちろん僕も例外ではなかった。
「もちろん、あの革新的な試みは僕の『はじめての恋』に匹敵するくらいだったけどな」
「あの狂った猥褻物と比べたら殺すぞ」
はじめての恋という、その白々しいタイトルは、さっき言っていたあの小学生強姦小説のことだった。僕が本当に焼酎の瓶を手に取ると、徳田は冷や汗をかきながら大人しく座った。僕の性格は本当におかしかった。時々自分が怒りのコントロールに問題があるんじゃないかと疑うこともあった。
僕はタバコを吸う。酒も飲む。タバコは一年生のとき失恋してから吸い始めた。本当にくだらない理由だが、それ以来やめられずにいる。酒も大学一年のときから飲んでいた。僕は中学・高校の頃は意外と真面目に過ごしていたのに、大学で崩れたタイプだった。
僕がだらけて酒ばかり飲んでいると、あいつはスマホをいじりながら何かを見ていた。僕は酒が少し飲める方だ。大量には飲めないが、大抵の人よりは強い。逆にあいつは酒に弱い。
「和樹さんはいつ来るんだって?」
僕が言うと、あいつは首をかしげた。
「さあ、もうすぐ来るんじゃないかな」
「あの人ももう復学ってやつをするんだな……」
今日、最後の休学期間を終えて復学の手続きをしに来るという和樹さんは僕の同期だった。浪人したせいで僕より一つ年上で、僕は「さん」付けで呼んでいた。先輩後輩の関係がはっきりしている僕たちの学校ではタメ口を強要してくることもあったが、僕はどこか堅物なところがあって、それができなかった。年上は年上だ。もっとも、口では敬っていても、実際には敬っていなかったが。
「お前、さっきから何見てるんだよ?」
「え? おい、ちょっとこれ見てみろよ」
あいつが差し出したのはXのページだった。そこにはある女の写真があった。爆発的で妖艶なプロポーションに、色気たっぷりの眼差しまで、まさにセクシーの結晶のような女だった。
「お前、3D(生身の女)にも興味あったのか?」
僕がこんな言葉を知っているのは、ひとえにこいつのおかげだった。見た目はまともなのに重度のオタクであるこいつは、アニメをはじめラノベ、その辺りの文化に非常に詳しく、また好きでもあった。
「おいこの阿呆。こいつ知らないのか?」
「知るわけないだろ」
「美雪じゃん。元の名前は結衣。TSして芸能界デビューした人、知らない?」
「TS? お前まだそんなのに興味持って生きてんの?」
「お前、この世界に降臨した唯一の奇跡であるTSウイルスに興味ないのかよ?」
もちろん、そのTSウイルスというものが発見されたときは世界中が騒然となった。発見されてからもう5年ほどになる。最初の発生地はアメリカだった。屈強な成人男性が一夜にして女になった。最初の発病者の姿は大通りのど真ん中で皆に目撃された。体から白い煙が立ち上り、男の体が激しく痙攣した。男は病院に運ばれ、まもなく男は女になった……というニュースが世界中に広まった。
人々は目にしても信じられず、まもなくロシアで女が男に変わるTSの事例が再び目撃された。僕はそれを見ながら思った。ついに世界が狂い始めたと。
最初の発病者が発見されてから5年が経った。TSウイルスがどんな経路で感染するのか、どうやって発病するのかについては研究中だったが、判明したことは何もなかった。発病者の体には何の異常も見られなかった。ただ性別と外見が変わるだけだった。
「本当にすごくないか? ただの病気なのに美男美女になるってことは? この宇宙にはある種の本質的な美の基準ってものがあるってことじゃないか?」
「たわ言はよせ、お前の考えてるような超越的な宇宙意志なんてものはこの世にない」
こいつは神を信じているわけでもないのに、何か超越的な宇宙意志などという奇妙なものを信じていた。何かとサイコだった。
「TS発病者の見た目は、本当に小説に出てくるみたいに見る人全員を惚れさせるってほどじゃない。でもとにかく誰が見てもかっこよくて、可愛くて、人種を超えて! お前こんなことが可能だと思うか? うわ、まじで! 今鳥肌立った。この世界はこの状況を分かっててあの子を作ったんだよ。これは現代に現れたあの子なんだって」
「あの子は何だよ、ラノベばっか語ってんじゃねえよ、あのインチキ作家野郎」
「は? お前今、神への冒涜したか?」
僕のジャンル小説の知識は全部、目の前のこいつから来たものだった。一緒に過ごした時間がそれなりにあるから、僕もそういう作家たちのことは知っているし、小説も何冊か読んだ。もっとも、僕は面白さのために小説を読んでいたわけではないので、何冊か読んで放り出した。
あいつの言う「あの子」というのは、見る者すべてを惚れさせるという、一種のミス・ワールドのようなキャラクターだった。異種族たちも彼女を見て美しいと思ったという。もちろんそんなことが実際に可能なわけがないが、今実際に起きていることは事実だった。
美の基準がまったく異なる地域の人々もTS発病者を見ると好感を抱いた。見た目というより雰囲気からそれを感じるようだった。もちろん恋に落ちるわけではない。ただ「嫌いじゃない」程度という概念が正しいだろう。もっとも、これも絶対的なものではないので、目の前にいるラノベオタクの言う「あの子」とは何段階も低いレベルにあった。
僕はほとんど狂信的なTS賛美論者であるこいつを、あきれた目で見た。
「そもそもトランスジェンダーとは違うだろ、あきれた奴だな。あれはこの世で殺人より深刻な暴力だぞ」
「それがなんで暴力なんだよ? 祝福じゃないのか?」
「性自認に問題を感じて生物学的性別を変えたい人にTSウイルスが発病したら、それは祝福だろうな。だけど大抵の人間は普通に自分の性別のまま生きてるんだよ。大抵の人間は自分のジェンダー(Gender)に何の疑いもなく生きてるんだって。突然それを変えられたら、はっきり言ってクソったれだろ。いや、男の場合はチンコが取れるってことだし、女の場合は男が付くってことだ」
「このクソ……頭おかしい奴だな、ゲラゲラ!」
僕の詭弁に、あいつはしばらく大笑いから抜け出せずにいた。笑わせようと言ったわけではなかったが、あいつが笑うから僕も笑った。この時までは、僕は知らなかった。僕がこんな風に語ったあの悪魔的なウイルスが、自分に降りかかってくるということを。本当にそんな状況になってしまうなんて、想像すらしていなかった。
最近マンゴージュースを飲んでいます。美味しいですね。




