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慰めない、という方法

「あ、それは……申し訳ないことになりました」


「申し訳ないなら出て行ってください」


「あ、はい、それじゃあ……」


医者は逃げるように病室を出て行った。廊下で何やらぶつぶつ言う声が少し聞こえてから消えた。特に気にはならなかった。むしろ胸がすっとした。僕は腹が立つとまず声が大きくなって顔が赤くなり、支離滅裂なことを喚くタイプなのに、この人は違った。表情ひとつ崩さず、低く落ち着いた声で、ゆっくりと理詰めで追い詰めていく。その静けさの方がよほど恐ろしかった。自分もあんなふうに怒れたらいいのに、と一瞬そんなことを思うほどだった。


「斎藤から連絡があって来た」


斎藤が知らせたとはいえ、太宮市からここまでは決して近い距離ではなかった。そのとき初めて、個室のキャビネットに掛けられた彼のコートが目に入った。その横には大きなリュックが一つ、立てかけてあった。


「ずっとここにいたのか?」


痛みが少しずつ引いていたので、今はどうにか話を続けられた。


「ああ、土曜日に来た」


僕が金曜の深夜に運ばれたはずだから、丸一日も経たずに来たということだった。復学前最後の休みだとしても、その時間をここで僕のそばにいることに使ったのかと思うと、何かこみ上げるものがあった。もっとも、この人は元々そういう人間だった。かつて学内デモがあったとき、教職員側が強硬に押し切ろうとする中、最後まで学生たちの前に体を張って立ちはだかったことがあった。この人にとって義理と友情は、いつだって文学より優先されるものだった。


「復学はいつだったっけ?」


「来週の金曜」


「今学期の履修登録は?」


「その次の週の火曜」


残り時間が少ないのだから当然の選択だったのかもしれない。それでも、最後に残った休みを僕のために使ってくれたという事実そのものがありがたかった。男同士の友情というのは、時々こんなふうに唐突にこみ上げてくるものだ。


詳しい事情はすでに聞いていたはずだった。当の僕は何も覚えていないので話せることがなかった。むしろ向こうが、これまで調べてきたことを一つずつ整理して聞かせてくれた。病院の医者たちにあれこれ尋ねたり、ネットで調べたり、海外の学術誌まで当たったらしい。正直、少し気圧された。英語の論文を読みこなせるほどの人間なのだ。考えてみれば斎藤も、和樹も、文学をやらなくてもどこかで一角の人物になっていたはずだった。


「正確に言うと、医学的なこととはあまり関係ないらしい」


便宜上TSウイルスという名がついているだけで、実際に発病者の体からウイルスや特異な菌が検出されたことは一度もなかった。感染経路も、発病の原因も未だに分かっていない。ただ一つ確かなことがあった。TS発病者に近づいたり、体が触れたりしたからといって感染するわけではないということだ。


代わりに有力視されている仮説が一つあった。一種の寄生説だった。発病者が死ぬと、その瞬間ウイルスが新しい宿主を探して移っていくというものだ。実際、発病者が死んだ場所の近くで新たな発病者が現れるケースがあったという。ただし正確に何が、どうやって移っていくのかは依然として分かっておらず、これもあくまで仮説の一つに過ぎなかった。


その話を聞いた瞬間、分かった気がした。目の前で死んだあの発病者と、よりによってその場で倒れた僕。辻褄が合った。あの人が死んで、一番近くにいた僕に移ってきたのだ。和樹が短くため息をついた。


「運が……悪かったんだな」


「……」


言葉が出なかった。本当に、恐ろしいほど運が悪かった。酔って叫びながら騒いでいたら、よりによってTS発病者の自殺現場のど真ん中に居合わせて、それで感染したなんて。誰に話しても信じてもらえないだろう。だがそれが実際に僕に起きたことだった。


理屈で言えば、TS発病者は世界にたった一人しかいないはずだった。だが実際にはどこかで次々と新しい感染者が現れ続けていた。原因も経路も分からない。だが今大事なのはそんなことではなかった。


僕は男だった。それが女になった。地球全体でも数えるほどしかいない発病者の一人が、他の誰でもない僕だった。


「はぁ、人生ってほんと……クソだな……なんでよりによって僕なんだよ」


和樹は「頑張れ」なんて言葉は口にしなかった。そんな言葉こそこの世で一番暴力的な慰めだと、彼はいつもそう言っていた。他人の痛みを完全に理解できる人間などどこにもいないと。だから彼は分かったような顔をしなかった。代わりに、必要なときに一言だけ助言をくれるだけだった。


「タバコ持ってる?」


このどうしようもない気分を、どうにか抑え込む必要があった。タバコなしではとても耐えられそうになかった。彼は黙って頷いた。


病院は原則として敷地内全域が禁煙だ。だがどこの国であれ、そんな規則が完璧に守られている場所は珍しい。僕たちは病棟の屋上へ向かった。このTS患者用の病棟は設備だけは立派だったが、病室そのものはがらんと空いていて、勤務中の看護師も一人だけだった。おそらく病室でそのまま吸ったところで、誰も何も言わなかっただろう。


この国はいつもそうだ、見た目だけは立派だが中身を覗くとたいしたことがない。ここも例外ではなかった。全身がまだ痛んでいたが、痛みは少しずつ引いていっていた。痛みよりも先に、タバコを一本吸って気持ちを落ち着けたかった。頭の中がぐちゃぐちゃで、自分でもまともじゃないと分かった。今もし隣に誰もいなかったら、そのまま屋上から飛び降りていたかもしれない。


「僕、背が縮んだよな」


僕が言うと、和樹は頷いた。横になっていたときは分からなかったが、起き上がってみるとはっきり感じた。もともと僕は平均より背が高い方だった。和樹の背が高いとはいえ、こんなに見上げるほどではなかったはずだ。ざっと見積もっても、今の身長は160を超えていないだろう。顔はあまりに衝撃的で、ちゃんと覚えてもいなかった。あえてもう一度見たいとも思わなかった。


階段を数段上ったところで、一度立ち止まらなければならなかった。


「きついか?」


「ああ……痛い……」


「はぁ……」


彼は気の毒そうにため息をついた。歯を食いしばって一段ずつ上った。たった一階分なのに、全身が疼いて耐えがたかった。見かねた彼が手を伸ばして支えようとした。


「いい、大丈夫。自分で上る」


理由も分からない拒否感から、その手を振り払った。和樹は一瞬首をかしげたが、それ以上は何も言わずに引いた。男同士でも支え合うことくらい普通にある。酔って肩を組みながら下宿までふらふら歩いて帰ったことも何度もあった。それなのに今は、それがなぜか嫌だった。自分でもこの気持ちがうまく説明できなかった。


脚を震わせながら階段を上りきった。本当にきつかった。それでも今はタバコが一本、どうしようもなく欲しかった。禁断症状というより、単なる習慣だった。何かを考えるとき、僕はいつもタバコを吸っていた。別にタバコが思考の助けになるわけでもないのに、習慣というのはそういう意味で恐ろしかった。


―ガチャ


屋上に出ると、和樹が差し出したタバコを一本受け取った。火をつけて、一口吸い込んだ。


案の定、という瞬間だった。


「げほっ! ごほっ! ごほっ! げほっ!」


「……いらないのか?」


「ごほっ! ごほっ!」


辛いというより、喉をナイフでこそげ落とされるような感覚だった。生まれて初めてタバコを吸ったときのあの感じそのままだった。ああ、もうタバコも吸えない体になったのか。そういえば、さっきのあの生意気な医者が細胞単位で体が再構成されると説明していた。その通りなら、今の僕の肺はタバコを一本も吸ったことのない、まっさらな肺のはずだ。受け付けるはずがなかった。


しばらく咳が止まらなかった。涙がにじむほどに。


「大丈夫か?」


「うぅ……」


胃がひっくり返って、煙を一口吸っただけで頭がくらくらした。患者着一枚で出てきたせいで、初春の風がこんなに冷たいのだと今さら気づいた。


「ふふ……女になって一ついいことあったな」


「何?」


「これでタバコやめられるじゃん。金も浮くし。ははは!」


屋上で、気が触れた男みたいに、いや気が触れた女みたいに、笑いが止まらなかった。自分でも正気じゃないと分かっていた。和樹はそんな僕を、苦い顔でただ見つめていた。笑っているのに、笑いじゃなかった。笑いながら涙が出た。


「人生をレイプされた気分だよ……」


和樹は何も慰めの言葉をかけなかった。それがかえって、慰めになった。

マンゴージュースは世界で一番美味しい飲み物だと思っていました……いや、トマトジュースも美味しいじゃん? でも……僕はマンゴージュースさんを愛してるんだって!

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