それはいとも簡単に。
ピンクの花びらがふと視界に入って、八代はうっすらと瞳を細めた。その色合いは淡く穏やかで、殺伐としていた八代の心にはまぶしくて痛かったからだった。そのピンクの花びらを散らした鉢植えを大事そうに抱えると、担任である里塚は八代に向かって一言言った。
「あなたには、その花の色が見えますか。」
八代は最初、里塚がなにを言いたいのか分からなかった。花の色が見えないはずはない、この花の色はピンクだ。とそう思った。
不信そうに見上げてくる八代にうっすらとした笑みを浮かべて見せると、里塚は困ったように鉢植えの花びらへと指先を伸ばした。
「この花の色は、ピンクですね。だけど、あなたにはどんなピンクに映っているんでしょうか?」
「あんたがなにを言いたいのか、俺には分かんねぇよ。」
八代は呆れたように里塚を見上げると、ついとそっぽを向いてしまう。ピンク以外になにか別の色でも浮かんでいるのかとも思ったが、そういうことではないらしい。ちらりと鉢植えに視線を投げると、ゆったりとして穏やかな笑みを浮かべたままの里塚が視界に入ってきた。
「あなたには、このピンクがどんな風に映っていたのか知りたかっただけですよ。」
穏やかな口調はどこも変わることはなく、それでいて奇妙なことを言い出すことも変わりはなかった。
「八代くん、あなたはどう思いましたか? がんばって綺麗に咲いたとそう思いますか? それとも、なんできついピンク色になったのかと思いますか?」
八代は里塚の言葉を聞くと、きゅ、と下口唇を噛み締めた。初めて里塚の言いたいことが分かったからだ。
「俺は……、」
言葉がうまく出てこない。
初めてその花の色を見たとき、まぶしくて真っ直ぐで瞳が痛かった。いや、痛かったのは心だろうか。純朴に咲き誇る花を見て、瞳を細めてしまったことは確かだ。
八代はそのまま俯くと、小さな声でボソリと呟いた。
「……俺は……その花は綺麗だと思うよ……。」
里塚は八代のその言葉を聞いて嬉しそうに笑う。
「ほら、ね。あなたはそこまで歪んではいない、ということです。私の言いたいことが伝わりましたか?」
里塚は八代の頭をぽん、と撫でると、笑顔のままそう続けた。八代はぼんやりとその手を見上げてしまう。男らしく骨ばった手をしているわりにはいつも終始柔和な笑みを湛えているこの教師を、けして嫌いではなかった。見上げる先に浮かんでいる両の瞳はいつも穏やかで。今日もやはり穏やかな瞳が浮かんでいるのが見えて、八代はどことなくほっとする。
「せんせぇ、俺はさ……。」
言い掛けて、ふと見上げた先には里塚の遠いところを見詰める瞳があった。花びらを指先で触れてはいるものの、視線はどこか遠くを見詰めている。八代はそんな里塚を見て、声を掛けることも忘れたかのように凝視した。言葉を掛けるよりもただ、視線だけが里塚を追ってしまっていたのだ。凛々とした表情が、柔和な言葉で微笑みでいつも消されていたことに気が付いてしまう。思いもつかない言葉が、それを覆い隠している。八代はふとそれに気がついた瞬間に、どきりと跳ねた己の鼓動に戸惑ってしまった。
「八代くん?」
あまりにも凝視されていたからか、ふと里塚が八代に視線を映して、柔らかな微笑みを浮かべた。八代は声を掛けられたことにどきりとして、慌てたように視線を外してしまう。だが、一気に頬に血が集結したかのように真っ赤に染まり、どぎまぎとした行動は里塚に疑心を抱かせてしまった。
「八代くん、顔が赤いようですが……。」
穏やかな言葉と共に、大きな手のひらが八代へと伸ばされる。ひたりと、額に当てられた手のひらから里塚の体温が伝わってきて、八代はまたしても鼓動が速くなっていくのを感じていた。
「な、なんでもねぇよっ。」
八代は里塚の手を払いのけてからそう言うと、ついとそっぽを向いてしまう。そんな動作さえも、里塚には可愛らしく見えるのだが……。
「そうですか。」
にこりと笑った里塚の両の瞳には、相変わらず柔らかな色が浮かんでいる。八代はなぜかどきどきする自分の胸が信じられなかった。
だが、胸の奥に広がっていく幸せな気持ちが、なんとも心地いいものだとも思っていた。
八代の恋は始まったばかりだ。




