雪の口付け
瀬田が窓から外を見ると、ちょうどハラハラと雪が舞い落ちてき始めていた。風もなく音もなく、静かな夜の闇に、窓から漏れる明かりに照らされて白い雪が舞い落ちている。瀬田は小さく息を吐くと、雪を見詰めたままに故郷を思い出した。
故郷を離れてから10年が経っている瀬田は、雪を見ながら懐かしくそして切ない想い出を思い出していた。
あれは高校最後の冬だった。
いつも一緒に過ごしていた親友との、初めてのキス。
触れるだけの幼いキスはいまでも瀬田の心の奥に残っている。
川原の土手に、学校帰りに寄り道をしたときのことだ。すでに日は沈み辺りは暗闇に包まれていた。その中を白い息を吐きながら、親友である桐原と共に「雪見をしよう」と川原へ寄った。サクサクと雪を踏みしめる音と、時折寒さに鼻をすする音だけが響いている中、ふと先に立って歩いていた桐原が後を歩いていた瀬田に、「雪、お前見納めだろ。」と話し掛けてきた。瀬田はわずかに驚いたが、すぐに笑みを浮かべると「ああ。そうだな。」と短く返す。
「お前、雪の降らないところに行くんだよな。」
桐原は寂しそうにポツリとこぼした。瀬田には桐原の後ろ姿だけが見えており、そのときどんな表情をしていたのかは分からない。だが、声は覚えている。いつもは元気に話す桐原だったが、そのときばかりはしんみりと寂しげな声をしていたからだ。
「そうだな……。」
瀬田は足を止めて、空から静かに落ちてくる雪を眺めた。前を歩いていた桐原は、瀬田の雪を踏みしめる音が聞こえなくなったことに気がついて、足を止めて瀬田を振り返る。とてもゆっくり、そして静かに。桐原の淡い茶色の髪に溶けることなく降る雪が止まり、瀬田は思わずその髪についた雪を払ってやった。クスリ、笑みを漏らした桐原は、「お前もだろ。」と言いながら瀬田の髪へと手を伸ばした。
街灯に照らされて桐原の瞳が茶色く透けて見えたのが印象的で、瀬田はそんな桐原につい見惚れてしまう。寒さのせいで頬はうっすらと赤く染まり、どことなく少女めいたその姿形に瀬田の心はどきりと跳ね上がった。
じっと見詰めた視線の先で、桐原の瞳がわずかに揺らいだのを感じた瀬田は、焦ったようにふいとそっぽを向いてしまう。
「……雪、降ってるんだから仕方ないだろ。」
照れ隠しだった。桐原は瀬田に軽く振り払われたほうの手を、もう片方の手で軽く握ると小さく俯いてからクスリと笑う。
「寒いよな、やっぱさ。」
そのまま空を見上げて、小さく呟く。
「ああ、冬だからな。」
瀬田も、小さく返した。
「……なあ、雪の降らないところに行くんだろ?」
桐原が瀬田をじっと見詰めた。その瞳はどこか悲しそうで。瀬田はそのまま小さく頷いてから、なにか言おうと口唇を開きかけた。だが。
「……後悔、しないのかよ。」
思わぬ強さで桐原が瀬田を見上げてきた。言おうとしていた言葉はそのまま飲み込まれる。
「後悔……?」
瀬田はオウム返しに問い掛けると、桐原はなにもなかったかのようにまた、俯いた。きつく握られたこぶしが小さく震えるのが見え、瀬田はその手にそっと自分の手を伸ばした。冷やりとした感触が手のひらに伝わってくる。
「……お前、俺のいないところに行くんだぞ。」
きり、と見上げた瞳にはうっすらと涙がにじみ、瀬田を凝視する。震える瞳に見詰められ、瀬田は桐原の言った言葉を頭の中で反芻してみた。
『俺のいないところへ行くんだぞ。』
「……そう、だな。お前はいないところだ。」
瀬田はゆっくりと呟いた。呟いてから、瀬田よりも一回りは小さい桐原を見下ろした。瀬田の視線の中で桐原はきつい瞳を瀬田に向けると、いきなり瀬田の胸元を掴んで引き寄せた。ぐい、と引っ張られ、瀬田はそのまま前かがみになってしまう。その瞬間に冷たい感触が口唇に触れ、すぐに離れて行った。押しつけられた口唇に冷たさを感じながら、瀬田はぼんやりと己の口唇に手を当てたままなにが起こったのか分からないというように、瀬田は桐原をただ呆然と見詰めてしまう。
「桐原……?」
驚きは声になってこぼれていった。
桐原は瀬田をきつく見上げると、にらみ上げた瞳から大粒の涙をこぼした。
「瀬田の、ばかやろう!」
桐原はそう一言言うと、こぶしで瞳を拭いそのまま踵を返して走り去っていってしまう。瀬田は呆然としたままにそんな桐原の後ろ姿を見詰めると、ゆっくりとした動作でさきほどの桐原の口唇を思い出すかのように自分の口唇へと手を当てた。
それきり、桐原と話すことはなかった。
そのときのことを、いまでも瀬田はハラハラと降る雪を見るたびに思い出す。結局、なにも言えぬまま、言わせてもらえないままに上京してきてしまった。あのとき、突然に触れた口唇の感触はいまだに残っている。忘れようとも忘れられないのだ。冷やりと柔らかな、感触。かすかに桐原の香りがして。
瀬田はそのときの自分を思い出してクスリと笑う。いまならきっと走り去っていった桐原を追いかけて、自分の中にあった気持ちを吐き出していただろうに。そう思うと、あのときの自分は幼かったのだと痛感させられるのだ。
「瀬田。」
当時のことを思い出して窓の外に降る雪を眺めていると、ふと背後から声を掛けられる。瀬田はその声にゆったりと振り返るとにこりと笑みを浮かべて声の主を見詰めた。
「なんだ、桐原。」
10年前に届かなかったはずの想いは、いまやっと届いている。
瀬田はうっすらと笑みを浮かべたままに、近づいてきた桐原を抱き寄せるとクスリと笑いをこぼした。
「桐原、10年前のことを覚えているか?」
その言葉に桐原は一気に頬を赤らめると、抱き寄せた瀬田の手を振り払おうとした。だが、瀬田の力は思ったよりも強く、振り払うことができない。
「放せ、馬鹿っ!」
だが、瀬田は桐原の口唇へとキスを送ると、悪戯めいた笑みを浮かべて話を続ける。
「あのとき、お前がキスをしてくれなければ、俺は俺の気持ちには気がつかなかったのかもしれないな。」
桐原は瀬田のその言葉を聞くと、さらに頬を赤らめる。すでに赤く染まっているのは頬だけではなく、顔全体にまで及んでしまっていた。
「あんなの、キスって言わないだろ。」
、冷たい口唇ではないけれどでも、ふとあのときの口付けを思い出させるような桐原の口唇に、瀬田は内心嬉しく思っていた。




