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きみと口唇

 男子バスケ部、部室。

 部活も終わってしーんと静まり返っていた。たまたま、カギ閉めの当番が回ってきていて、一人で体育館を見て歩く。どこもかしこもしっかりと鍵は閉まっていて、磯崎は小さく息を吐きながらシャワー室へと足を向けた。かたん、と小さく音を立てて扉を開く。誰も居ないことは分かっていてもなぜか、しーんと静まり返ったシャワー室が不気味に思えた。ばさりとシャツを脱ぎ捨てて蛇口をひねる。勢いよく飛び出してきたお湯のしぶきを頭からかぶって。ふと、ばたばたと落ちるタイルへと視線を向けた。

 連日の厳しい練習につま先が赤くなっている。体力ぎりぎりまで走り続けていた自分へ、なぜこんなにがんばっているのかと、問う。答えは決まっていた。

 同じバスケ部員の先輩である工藤に少しでも近づきたいからだ。

 小柄で、でも瞬発力も判断力も誰よりも早くて、チームの要である、工藤。たったひとつ年上なだけなのに、どうしてこんなにも彼の存在は遠いのか、磯崎にはそれがもどかしい。彼に憧れて入ったバスケ部だったが、練習量と上下関係の厳しさに、少しも工藤には近づけない日々だった。少しでもいいから会話を交わしたい。そう願うも、入部してからまだ半年。遠くから工藤のプレイを見つめるだけの日々。

 身長もバスケ・センスも、他の部員からはお墨付きの磯崎で時期にスタメンに入るだろうと言われてまで居るのに。なおも工藤は遠いところにいる。

 しゃーっというシャワーの水に乱暴に頭を洗い顔を洗い。

 きゅ、と蛇口をひねって水を止める。掛けておいたタオルを手にして身体を拭いて。ふと、曇りガラスの向こうの空を見上げた。最後が自分であることは明白なのだろう。物音ひとつしないその静けさが磯崎を包み込む。最後なら気楽だ。磯崎はそう思って、ゆっくりと着替え部室へと足を向けた。洗いざらしの髪が秋の冷えた空気を吸って、ひやりと背中に冷たさを落とす。


「っくしゅ!」


 くしゃみと同時に、部室の扉を開いた。月明かりが明るくて、磯崎は電気をつける必要もないだろうと思って、そのままに奥へと進む。

 誰一人残っては居ない、静かな部屋。磯崎は軽く辺りを見回すと、荷物を取りに自分のロッカーへと歩き出す。その視界に、ふと。

 ベンチに転がった二本の足が見え、どきりとそちらを振り返った。声なき声が咽喉の奥で行ったり来たりし、飛び跳ねる心臓をなんとか押さえつけながらそちらを見る。まさかと思いながらもあり得ない光景を想像しては、なかなかベンチに横たわる二本の足の主(もしくは、二本の足の状態)を見ることができなかった。


「……え……?」


 正体を見て、磯崎は絶句する。バスケ部員の、工藤がベンチに横たわっていたからだ。生きているのか、それとも……? どきりと、今度は違う意味の鼓動が鳴り響いた。

 工藤は眠っていた。連日のハードな練習に少し休んでから帰るつもりだったのだろう。ぐったりと横たわり、ちょっとやそっとの物音では起きる気配すら見せることはないようで。磯崎はそおっとゆっくりと、工藤の頬に触れた。温かな人肌と柔らかな感触が手のひらに伝わってくる。規則正しい呼吸音と胸の動き。かすかに開いた口唇にふと視線が止まり、釘付けになった。

 いつもやんちゃな笑顔を見せるその口唇は思ったよりもあっさりと薄く、小さく開いたその奥に八重歯のある歯並びがかすかに見えた。


「工藤先輩……起きないと風邪引く……、」


 肩に手を置いて、そっと声をかける。これで起きてくれればいいのに。磯崎は思うが工藤はぴくりとも動かない。起きる気配すらみせようとはしていないのだ。薄暗い部室。電気をつければよかったと後悔しても遅い。

 何度か肩を揺さぶったものの、工藤はまったく起きるようすはなかった。次第に、磯崎は工藤に見入る。日ごろ見せている大きな瞳がいまは閉じ、やんちゃに見せる笑顔はいまはない。それだけなのに。

 磯崎は惹かれるように、工藤の口唇に。


 そっと。


 口唇を寄せていた。


 まるでなにかに惹き付けられるように。そっと。ふわりと柔らかくて温かな感触が磯崎の口唇に伝い、かすかに離して、もう一度口付けをしていた。


「ん……、」


 漏れた吐息にどきりとし。慌てて口唇を離す。たったいま自分がしたことを思い出したかのように、はっとした。いま俺はなにをした? 工藤先輩になにをした?

 考えはまとまらず、思うよりも先に慌てていた。口唇を手のひらで多い、ロッカーに背中をぶつけてしまう。がたん、と大きな音を立て、今度こそ工藤が起きてしまうと思って焦った。

 急いでロッカーから荷物を取り出し、工藤を振り返ることもなく部室から立ち去ってしまう。


「うそだろ、俺……。」


 呆然とした呟きがついで出た。

 部室の扉に背中をついて、ずるずると足の力が抜けていって。ぺたんと座り込んでしまう。自分のしたことに驚きを隠せなくて、自分が工藤に対して抱いていた思いが分からなくなって。


 そのころ、工藤は目を覚ましていた。

 真っ暗な部室の中、先ほどのことを頭に思い描いて、小さくため息をつく。驚かしてやろうと思ったのに。まさか。掛けられた声が優しくて聞き心地が良くてもっと聞いていたくなった。


「工藤先輩……。」


 そう呼ぶ声が。

 だけど。

 口唇に先ほどの感触がまだ残っていて、工藤は人知れず頬を赤らめていた。どきどきと早鐘のように鳴り響く鼓動がうるさいほどに。なにを言っていいのか分からなくなった。かすかに離れた口唇がふたたび舞い戻ってきたとき、思わず小さな声が出た。その拍子に。磯崎は逃げ出してしまったけれど。

 工藤は自分の胸を押さえてなんとか動悸を整えようとしても、先ほどのことが頭から離れず鼓動は収まらない。

「なに考えてんだ、あいつ……。」


 毒を吐いてみるものの、不思議といやな感じはしなかった。


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