空へと飛ぶこと。
「天皇陛下より、祝いの杯を……。」
上官の言葉が遠くのほうで聞こえてきた。きつく額に白い鉢巻をして、白い杯を手にとって。注がれる酒へと視線を落とす。二度と生きて帰っては来れないだろう。そんな思いと心に残る人物をふと思い浮かべて、神野はきりりと口唇を引き締めた。
杯を握り締める手が、思いのほか小さく震えている。
だが。
死ぬことが怖いわけではない。
この国の行く末など、軍人であるならば誰しもが知っているだろうこと。こんなことをしなくても、日本は負けるであろうことを。しかし、行かぬわけにはいかないのだ。仲間が散っていく姿を見て、どうして自分だけが逃げ出せようか。まるで明日も会えるのではないかと思えるほどに、簡単に。片手をあげて次々と空へと飛び立って。それきりだ。
戦友たちの乗った戦闘機は海の藻屑と化していた。無意味なことではないはずだ。そう信じて飛び立った戦友の後を自分でも追うことが当然だと、神野は思っていた。けして、無意味なことではないのだ。
負けることが分かっていても、最後まであがき続けることのどこが無意味なのか。けして、無駄ではない、自分たちの死は。そして、この出撃は。
神野はそう信じて疑わなかった。
真っ白な杯に注がれる、透明な酒をじっと見下ろす。これが生きて口にするものの最後なのだ。杯に口を寄せそれを一気に飲み干した。熱い塊が咽喉を通り抜け、胃に染み渡る。かぁっとした熱さが身体を襲い、神野は小さく息をつく。そうして。二度と口にすることはないだろうとその杯を地面に叩き付けた。
「ありがとうございます。」
低い声がこぼれて落ちる。最後の最後で、こうして滅多に口にすることのない上等な日本酒を口に出来、そして、体内を浄化して。自分は出撃するのだ。
思い残すことがないように、日本酒で浄化して……。
「神野、貴様……特攻へ出撃命令が下ったそうだな。」
重々しい空気が、神野とその友人を囲んだ。日本帝国の敗戦は濃厚である最中、神野はその出撃命令を受けたのだ。拒否はできるはずもなく。
「ああ。」
神野はすべての思いを飲み込んで、ちらりと秋野を見ると小さく返事を返していた。
「これに賭けてみるさ。」
神野は手にしていた杯を一気にあおった。
神野は戦友である秋野と酒を飲みに、飲み屋まで足を運んでいた。お互いがほろ酔い気分になり、だんだん会話も盛り上がってきた、そんなとき。突然秋野が言い出したのだ。
知っていてもおかしくはないのだが。神野はできれば秋野には知られたくはなかったことでもあった。貴様が行くのなら俺も志願する、そう言い出しそうで。神野は怖かった。頬をうっすらと赤に染めた秋野が小さく息を吐いた。そんな秋野の姿にどきりと心が揺れる。秋野はもともと、ほっそりとした線の持ち主で、見ているだけなら「綺麗」と評される面立ちをしていた。す、と線を引いたようなすっきりとしたまなじりが、いまは酔いのせいなのかうっすらと赤く染まっていた。肌は日に焼けることはないのだと言う秋野の言葉どおり白く。
秋野のこの顔も見納めか、と神野は言葉も少なに彼を見つめていた。もともと神野は多くを話すほうではないのだ。しかし、同期である秋野とは違っていた。言葉こそ少ないものの本音を吐き出せる唯一の存在だったからだ。
「いつ、出撃なんだ?」
酒を手に、神野の元に置いてある杯へと注ぎいれる。
「三日後と聞いた。」
注がれる酒の水面をじっと見下ろして、神野が答える。短くも、それが神野にできる精一杯の強がりでもあったのだ。
「遺書を……、したためておけとの命令だ。」
くすり、笑みを浮かべた。遺書を、だれに宛てるべきなのか。それすら迷うのだ。神野自身を今生へと引き止めるのは果たして、故郷の両親なのか目の前にいる秋野なのか。どちらに遺書をしたためれば良いというのか。神野は目の前にいる無言のままの秋野をふと見つめた。
お国のためだ。頭では分かっている。自分は軍隊に入隊してから自分の存在はこの国のためにあるのだと。この命は天皇陛下のために存在するのだと、頭では分かっているのだ。
なんのために自分はこの国を守ろうと思うのか、ふと考えてしまう自分がいる。できることなら、秋野には生きていて欲しいと思うのも事実なのだ。そして、故郷にいる両親も。
「遺書は……やはり、国元のご両親へ宛てるのか……?」
ずっしりと重たい声が秋野からこぼれた。秋野の故郷はとうに空襲で焼けてしまっている。遺書を書けと言われて、即座に思いつくものでもないだろう。
「最期に……、最期に残したいと思う人へ宛てるべきなのだろうな。」
神野は、目の前に注がれたままの杯を手に取ると、それを味わうまでもなくといったように、咽喉の奥へと流し込んだ。
「……貴様が行ったあと、きっと俺も行くことになるだろうな。」
ぼそり、秋野が小さくつぶやいて。
「そうならないように、お前が踏ん張ればいい。」
神野が即座にそれを否定する。
「しかし……、戦友たちはみな空を飛んでる。現に、こうして予科練でしていることは……戻ってこれないと分かっていながら空を飛ぶしかない飛行訓練だろう?」
神野はその言葉になにも言わなかった。昭和二十年、戦禍はますます厳しい状況となっていた。このままでは敗戦濃厚なのは目に見えていて。それでも負けじとあがく、帝國は。いまの時代は死に急ぐ時代だ。死ぬことが美しく生き残るのはよしとされない時代だ。
「死へと急ぐ必要はあるまい、なあ、秋野。」
神野自身、言ったことと数日後の自分の辿る道を飲み込んだ自分が矛盾していることは承知の上で。秋野は神野を驚いたように見た。
「な、にを言ってる? 俺に、生き残れと言いたいのか? 生きてこの国の未来を見ろと? 貴様は先に逝くと言うのにか?」
生きて帰ってこれないと分かっていながら、生きて帰って来いというのと同じように、生きろ、と言われることも同じようにつらいのだろう。秋野は神野の言葉に声を荒げた。
「そうだ、と言ったら、どうするんだ。」
声を荒げる秋野とは対照的に、神野はあくまでも穏やかだ。そんな神野を食い入るように見ていた秋野だったが、なにかを諦めたようにふと視線をはずす。
「お前には……、生きろと言われる気持ちが分からないのか……? 残される者の気持ちが理解できないのか?」
目頭を押さえて。秋野が小さくつぶやいた。いずれ、秋野自身にも出撃命令が下るであろうことは予測できることだ。しかし、神野はあえて生きろ、と言う。秋野はそれきり、言葉をつぐんだ。
「なあ、秋野。いまは死ぬことが美しいとされる時代だ。しぶとく生き残るのをよしとされない時代だ。俺にはもう時間がない。生き残りたいと言える時間はないんだ。……お前にはまだ時間がある。自ら進んで死ぬこともあるまい? 死を選ぶことも生を選ぶこともどちらも、俺にはできんのだぞ。」
秋野は神野の言葉を静か聞いていた。かすかに俯いて、ぽたりと涙をこぼして。秋野は置いていかれる悲しみと、生きろ、という神野の言葉に挟まれていたのかもしれない。
帽が振られる中、神野は戦闘機へと乗り込んだ。自らを爆撃に変えた戦闘機へと乗り込むのだ。
ふと景色を見渡せば、帽を振っている中に秋野の姿が見える。
笑ってくれ、秋野。
そんな悲しそうな顔をするな、秋野。
俺は、お前と出会えて嬉しかったよ……。
思いのたけを込めて、神野はそっと手を上げ秋野へと笑みを浮かべると、自分が踏みしめた大地から飛び立つように、空へと駆け上がった。まるで、思いを断ち切るかのように潔く、彼は大空へと滑り出していった。




