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金魚すくい

 夕方近く、すでに大学の授業も終えバイトもなくて。なにもすることがない午後だった。受ける講義もなく、かといって買い物とかそんなことをする気にもなれずまっすぐ家へと帰る途中、その店の前を通ると、何故か懐かしい香りがした。

 子供のころ、あまり得意ではないくせに果敢にも毎年チャレンジをして、欲しかったそれをすくうことができなくて、いつも手にぶら下げていたのはおまけにくれる赤い金魚だった。連れて帰っても一週間くらいしか生きてくれなくて、いつしか金魚は好きじゃなくなった。

 あれから。

 随分と時は経ち、そんなことすら忘れていた気がする。たまたま通りかかった店の趣がなんだかふと懐かしさを感じさせ、つい店内へと入っていくと、偶然にもそこに居たのだ。懐かしい赤い色をした、欲しいと願って何度も挑戦したのにすくえなかった出目金が。欲しいと思って果敢に挑戦したのは確か黒い色をしていたはずだけど。でも、目の前で悠々と泳いでいるのは、おまけにもらった赤い金魚と同じ赤色をしていて。

 気がついたら店員を呼んでいて。その赤出目金を買っていた。

 手には出目金の入ったビニール袋をぶら下げて、そういや水槽とかないよな、なんて思って近くのホームセンターに寄って、金魚鉢を買って。

 じわりと暑い外気に毒づきながら歩き出せば、手にぶら下げたビニール袋からチャプンと音がした。


「あれ? 梶原先輩。なにぶら下げて……って、魚?」


 小脇に金魚鉢の入った箱を抱えて、手には金魚の入ったビニール袋をぶら下げて。暑さに半ばうだれそうになりながら、ジーンズのポケットから鍵を取り出すと、聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。ドアの前で待っていたのだろう聞き慣れた声の持ち主は、梶原の後輩で、塚本という男だった。

 頬に汗を滴らせながら、ニッと笑って見せる。のんびりとした雰囲気で、梶原が手にぶら下げていたビニール袋をじっと見つめたまま、小さく息を吐き出した。そして、今度は呆れたような口調でボソリとつぶやいた。


「……先輩、水だけじゃ魚は飼えませんよ……。ちゃんとゴハンとかあげなくちゃ。」


 片手に抱えていた金魚鉢の入った箱を取り上げると、梶原を見下ろして今度は薄く笑う。


「……とりあえず、パンくずとかでいいかと思って……。」


 言われてみりゃそうだよな、と思いつつ、決まりが悪そうにぼりぼりと空いた手で首を掻く。梶原のいつものくせだ。自分の思いつかないことを言われると、首筋を掻く。素直に認めているのに、言葉では少しの抵抗をしてみるのだ。


「駄目だってば! そんなだから……、」


 言いかけて言葉を噤んだ塚本に、梶原は「そんなだから、なに?」とでも言いたげな視線を向けると、塚本の頬にふたたび汗がつう、と滴り落ちた。なにも自分の家の玄関の前で立ち話もないよな、と手にしたままの鍵を鍵穴に差し込むと塚本の顔を見ずに言ってやる。


「いいよ、上がってけば?」


 きっとそのつもりだったのだろうから。

 ガチャ、とドアの開く音と共に、部屋から外の外気よりもずっと暑く蒸された空気が一気に外へと流れ出る。誰に語りかけるでもなく、暑いな……とつぶやいた背後から「……そっすね……」と相槌を打つ声がした。何気なく振り返ると、やはり頬から汗を滴らせた塚本が、思わずドキリとしてしまうほどに優しい瞳をしている。そんな瞳で見るなよ、と言いたいのに、梶原のドキリと高鳴った鼓動が声を封じ込めるかのように止まらない。ゴクリと唾を嚥下すると、動悸をごまかすかのようにビニール袋を床に置いた。

 いったいいつからこの後輩はこういう視線で梶原を見るようになっていたのか。もうずっとこういう瞳で見られているような気がする。梶原はその視線の中で居心地が悪そうに首に手を回すと、ぶっきらぼうに「金魚鉢」と塚本に手を差し出した。

 キッチン、というよりは台所といった感じの流し台に立つと、勢いよく蛇口をひねる。蒸された空気を冷やすかのように水を流すと、金魚鉢の中に水を汲み溜めた。


「先輩、ちゃんと洗わないと駄目ですよ、……あ、洗剤は使っちゃいけませんよ。」


 背後からぬうっと手を出すと、塚本は梶原が汲み溜めた金魚鉢の中の水を捨てた。梶原よりも背の高い塚本に背後からそんなことをされると、なんだか落ち着かない。


「だけど、ちゃんと水槽で飼わないと駄目ですよ?」


 いつの間にか梶原に変わって塚本が金魚鉢を洗っていた。梶原はぼんやりとそれを眺めながら、半そでから伸びる、意外にも陽に焼けた腕に気を取られてしまう。視線に入るその腕は、金魚鉢を掴むたび水を捨てるたび、筋肉が盛り上がる。


「先輩、はい、これ。」


 見惚れていた腕はそのままぬうっと差し出され、ほんのわずか梶原は言葉が出てこない。腕の先、視線をたどってハタと気がついた。手には水の入った金魚鉢。見惚れていたことに気が付かれたくなくて、慌てて視線をあげると梶原を見下ろしていた塚本と瞳が合った。その途端にニコリと微笑まれてしまう。


「金魚、ビニール袋のまましばらく……そうですね、二十分くらい浮かべて……、」


 つい、と視線が梶原の向こう、部屋の中へと注がれた。どこに置こうかというようなそんな感じだ。塚本はそのまま部屋の奥へと歩いていって。ちょうど直射日光の当たらない場所へと小さな音を立てて、金魚鉢を置く。床に置いてあったビニール袋を鉢に浮かべて。


「先輩?」


 まるで金魚を飼ったことがあるのだろうかと思わせるように慣れたしぐさの塚本から目が離せなかった梶原へと、振り返った。


「なに、ぼんやりしてんです?」


 クスっと笑う声がして、梶原ははっとする。顔を覗き込まれて、梶原はかあっと頬が熱くなった。なにを今更、と梶原が思うほどに塚本は常にそういうことをするような奴なのに。


「な、なんでもねえよ。」


 もう少しで頬やら額やらを触れられそうになり、梶原は慌てて塚本の横をすり抜ける。そして、塚本がやってくれた金魚鉢へと目を落とした。目が痛いほどに鮮烈な赤色をした出目金が、狭いビニール袋の中をゆらゆらと泳いでいる姿は、なんだか涼しそうに見える。横に飛び出た目は辺りの様子を窺うかのようにきょろきょろと動いている。その風貌はなんとなく可愛らしくて滑稽で、梶原は知らずに微笑んでいた。小さいながらも一人暮らしに初めてできた同居人なのだ。なんだかそれだけでも嬉しいと感じてしまう。ついつい梶原は金魚鉢の中をゆらゆらと泳ぐ出目金の姿を想像して、口元に笑みがこぼれ落ちていた。


 そんなとき。


 背後からぬうっと両手が出てきたかと思うと、先ほど梶原が見惚れていた腕がゆったりと梶原を抱きしめてきた。抵抗することすら忘れてしまうほどに、ゆったりとした動作で。ドキリと高鳴った鼓動がバレてしまいやしないだろうか、なんてそんなことすら心配して。梶原は抵抗することを忘れていたのかもしれない。


「……先輩、そんな顔して笑わないでくださいよ……。」


 相変わらず、なにを考えているのか分からないような声を出して。すぐにその手は離れていったけれど。梶原の肩や首からは、すぐにはその体温が消えることはなく。ドキリと高鳴った鼓動も、しばらくは止むことはなかった。そうして、すぐに背中にある塚本の体温を空気越しに感じながら、梶原はきゅっと口唇を噛んだ。


「いいなぁ、金魚。先輩にすくってもらえて。」


 冗談のような声色で。小さな笑い声を漏らす。


「俺も……、俺もすくってくださいよ、先輩。」


 するりと。ふたたび腕が伸びてきて、梶原を抱きしめようとして梶原の手に止められる。


「馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ。」


 わざと呆れた口調で言い放つと、梶原は塚本の両手を後ろへと押し退けた。


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