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いつも傍に。

「ああ、今日も失敗してしまったみたいですね。」


 東条の脇で、白衣に身を包んだ佐伯が小さく呟いた。手の中には細い試験管が二本、なんの変化もみせることなく握られている。白煙事件があって以来、東条は研究室の表に控えているのではなく、ともに行動するようになっていた。それだけ、佐伯という人物は研究に関しては一流(この場合「超」がつくかもしれないほど)であるのにも関わらず、どこか危なっかしい人物でもあったのだ。


「佐伯博士、今日は何度目です?」


 呆れたような声色が佐伯に向かって突き刺さる。隣にいるのは東条のみで、もちろんその言葉も東条が発した言葉だった。


「あー、いや、何度目でしたっけねぇ?」


 のほほんとにこり笑って、佐伯がふたたび新しい試験管を手に取って試薬を注ぎだした。東条の言葉の意味すら意に介していないのか、それともただたんに無視しているだけなのか。東条は黙ってそれを見守っている。メガネ越しに見せる真剣な眼差しは、柔らかな薄茶色の髪でわずかに隠れ、それが東条をどきりとさせた。白煙事件の際になぜか気体状の媚薬めいたものを作ってしまったことがあったのだが、そのときの妖艶な眼差しを思い出してしまうのだ。幸い、あのことを佐伯はまったく覚えてはいなかったのだが。

 試験管の中に試薬を二種類注ぎ入れた佐伯は、それをくるくると回して撹拌しつつちらりと東条を見た。おっとりとした眼差しはそのまままっすぐ東条を見詰め、東条と視線が合うとふわりと笑みの形をかたどるのだ。


「東条中尉殿は、化学に関して知識がおありなのですか?」


 いつもと変わらない優しげな眼差しだ。東条はそんな佐伯をまぶしそうに見詰め返すと、曖昧に頷いてみせる。わずかに躊躇ったのち、東条は遠慮がちに言葉を返した。


「はい、自分には化学に関する知識はありません。上官からの命令で、あなたの警護をせよと仰せつかっただけなので。」


 東条は困ったように笑みを浮かべながら、佐伯の手元をじっと見詰めた。もしも佐伯が試験管を落としたとしても、それをしっかりと受け止めてしまおうとでも言うかのように。


「そうですか。でも、興味はおありなのでしょう?」


 にこり、ふたたび佐伯が笑顔になる。東条の真剣な眼差しが、佐伯には化学に関して興味があるように見えているらしかった。東条はそれに関しても、返答に困ってしまう。以前の自分ならばきっと興味はないと言い切っていただろうに、この博士に関わってからというもの、少しでも彼に近づきたいと思ってしまうのだ。化学のことに興味を持ったなら、この佐伯という人物は自分にも少しは関心を抱いてくれるかもしれない。などと甘いことを考えてしまっているのも事実だった。


「興味、ですか。ははっ、自分は興味があるように見えるのですね。」


 東条は佐伯のほうに視線を送ると、やはり困ったように笑い声をあげた。これ以上詮索されては叶わない。東条はそれきり、佐伯の「化学に興味はあるのか」という質問に言葉を返すことはなかった。




 うららかな、午後。

 人気のない研究室には淡く日差しが入り込み、ぽかぽかと室内を温めていた。

 東条は、黙って椅子に腰を掛けて真剣に資料を見詰める佐伯の横顔をじっと見詰める。柔らかく入り込む日差しが佐伯の髪を透き、淡い茶色に見せていた。白衣の白が瞳に痛いほどだったが、東条は薄く瞳を閉じたまま佐伯を見詰めることを止めようとはしなかった。人目を惹く、というのであろうか、東条は佐伯から視線を離せないのだ。初めて見たときからずっと、東条は佐伯を守り見詰めていた。

 す、と一筋に通る鼻、薄く淡い赤の口唇がきりりと引き締まり、じっと資料を見下ろしている。その姿はとてものほほんとした穏やかな人物になど、見えはしなかった。時折資料のページをめくる手を止めては、脇に置いてあるノートに何か書き記す。東条は佐伯のその細長い指が筆記具を握り、さらさらとノートに字を書き込んでいく手に視線が惹かれた。研究ばかりしていたというだけあって、彼の手はほっそりとしており自分の手と比べてみても綺麗だったのだ。


「研究者の、手ですね。」


 東条が思わず、ぽつりと言葉を漏らす。佐伯はその言葉には、としたように顔を上げると、先ほどの真剣な眼差しを引っ込めてからうっすらと笑みを浮かべてみせた。


「そう、でしょうか?」


 言いながら、ことりと筆記具を机の上に置き、自分の手をまじまじと見始める。そんなことを言われるとは思ってもみなかった、とでも言いたげな不思議そうな表情が、さらに東条の笑みを深くさせた。そんな仕草さえかわいらしいのだ、この人は。自分よりも年上だとはとても思えない。東条はそう思いながら佐伯に相槌を打つ。


「ええ、そうです。繊細な指先じゃないですか。」


 ほら、というように東条がそっと佐伯の手を取った。そして、手のひらに乗せて指先を見てしまう。佐伯は東条のされるままに彼の手のひらに置かれた自分の指先をじっと見詰めた。そして、ふわりと笑みをこぼす。


「東条中尉殿も、堅剛な手のひらをしているではありませんか。戦う者の手のひらですねぇ。」


 指先が東条の手のひらをくすぐった。日々、木刀や軍の訓練で剣を握ってできた肉刺まめを、佐伯の指先が触れていく。その感触に思わず東条はどきりとさせられた。するりと撫でていく感触がふと、白煙にまみれた後に起きた佐伯の豹変振りを思い出させたのだ。


「あ、佐伯博士!」


 東条は頬を朱に染めて、反射的に手を引っ込めてしまう。下部がずくりとうずき、しゃがみ込みそうになるほどに、刺激を受けたような感覚に陥った。


「東条中尉殿?」


 怪訝そうな、傷ついたようなそんな表情を浮かべて佐伯がじっと見詰めてきた。東条は赤らめた頬をせめて見られないようにと顔を背けながら、小さく謝る。


「すみません。」


 佐伯はその掻き消えそうなほど小さな東条の声に、小さく「いえ……」と首を振ってみせるがやはり、表情は戻らなかった。もともと色白な顔色がさらに血の気を失ったように青ざめて見える。東条は慌てて自分の手を引っ込めてしまったことを、少なからず後悔していた。佐伯の、そんな表情を見せられてしまっては、こんなに近い場所へ居られるはずもなく。ましてや、そんな表情をさせてしまったのが自分であっては、東条はその場を離れるしかなかったのだ。


「佐伯博士、自分はあちらのほうへ控えておりますので。」


 佐伯の顔をできるだけ見ないように東条は小さな声でそう、佐伯へと告げる。す、と部屋の隅のほうを指差すと東条は静かに席を立って歩き出した。


「あ、分かりました。なにかあったら言ってくださいね。」


 佐伯は小さくそう返事をすると、ふたたび資料へと視線を落とした。東条は部屋の片隅へと椅子を移動させ、腰を下ろす。佐伯のその様子を遠くからぼんやりと眺めた。白い指先がぺらぺらとページをめくり、時折、困ったように眉をひそめる。その仕草をただ遠くから見詰めるしかなかったのだ。


 温かな日差しが東条を照らす。うらうらとたゆたうように空気がめぐり、東条はいつしかコクリコクリと眠りに引き込まれていった。うっすらと閉じてしまう東条の視線の先には、難しい顔をした佐伯の顔が見える。それもいつしか薄く煙った視界の中でゆっくりと消えていった。


 佐伯がふと資料から視線を離し、東条へと移してみるとそこには東条が窓辺に頬杖をついたまま、ゆらゆらと眠っている姿が見えた。佐伯はその東条の寝顔をじっと見詰め、思わずクスリと笑みを漏らす。思ったよりもずっと幼い寝顔が、年相応にも取れたのだ。佐伯は音を立てないようにそっと椅子から立ち上がると、東条の寝顔をより近くで見ようとそっと彼の傍に歩み寄る。そして、そっと膝をつき東条の寝顔をじっと見詰めた。普段、瞳を開いているときに見えるきりりとした黒目がないだけで、こんなにも変わるものなのかと思えるほどに東条の顔は幼く見えた。そっと手を頬に当ててみると、わずかに顔をずらして小さく声を漏らす。そんな仕草さえ佐伯にとってはかわいらしく思えてしまう。

 クス、と佐伯はふたたび笑いを漏らした。


「ん……。」


 小さく、東条がなにか呟くのが聞こえ、まさか起きたのだろうかとどきりとしてしまう佐伯だったが、覗き込んだまぶたは開く気配を見せるわけではなく、それが寝言であることを悟る。なにを小さく呟いているのか、佐伯は東条の口唇の近くへと耳を寄せそれを聞き取ろうとする。


「ん、佐伯……博士……。」


 小さく呟かれたのは佐伯の名前。どきりとして佐伯は思わず東条の顔を覗き込んだ。ふと佐伯はその拍子に東条の膝へと手を乗せて、床にぺたりと座り込んでしまう。


「佐伯博士、好き……です。」


 床に座り込んだ佐伯の耳に、現な東条の声が降ってきた。それは明らかに夢の中での声であり、けして起きているときの声ではない。佐伯はほんの一瞬だけさらに瞳を見開いて驚いたものの、すぐにふわりと笑みを浮かべた。そして、手を伸ばして東条の頬をそっと撫でる。


「知っていましたよ、東条中尉殿。」


 佐伯はそう小さく東条の寝言に答えると、立ち上がってふたたび資料へと視線を走らせた。

 佐伯は知っていたのだ、東条が自分を少なからず好いてくれているのだろうということを。普段、あれだけ熱い視線で見詰められれば、どんなに鈍感な人間でも気が付くだろう。そう思うと、佐伯は笑みがこぼれてくるのを隠せなかった。

 佐伯は、東条が目を覚ましたらなんて言ってやろうか、と思案しながら試験管を手にとって火にかざしてみたのだった。


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