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雪の手紙

 はあ、と吐き出した息が白く染まるころ、遠く離れたところではすでに雪がちらちらと姿を見せているのだろうと、毎年思う。なぜ毎年そう思うのか。それは学生時代住んでいた故郷がそうだったのだ。十一月の初めになると雪がちらちらと降り始める。十二月になれば辺りは一面が真っ白に変わり、夏の間に見せていたアスファルトが完全に姿を消すのだ。そして。半年の長い冬が訪れる。

 俺は、その雪が嫌いだった。雪が、とても嫌いだったのだ。大した理由なんてなにもなかったが、生まれたときからずっとそばにあったし一年の半分は白い景色を見てすごした。どこまでも続く真っ白な道を、幼いころは本当に楽しく遊んだりもしたものなのに。それがいつしか雪は大嫌いになったのだ。もしかすると、高校時代、友人がスリップした車に撥ねられたからかもしれない。それとも、雪で滑って何度も転んだからなのかもしれない。

 音もなく次第に世界を変えていく雪が、いやだったのかもしれない。

 だが。

 こうしていま、雪の降らないところに来て何年も過ごしていると、いやでたまらなかった雪に触れたいと思うときがある。どうしようもなく懐かしく、雪に会いたいと思うときがある。

 窓の外を眺めて、寒いのにどうして雪が降らないのかと不思議に思うときさえあるのだ。

 もしかすると、高校時代に感じていた淡い恋心を思い出しているのかもしれないなどと思うこともある。

 交通事故に遭い、半身が不自由になってしまった親友、上月雪弥こうづきせつやを思い出して。


 冷たい印象だった。雪弥、という名前の通り色白でどこか消えてなくなりそうな感じさえしていた。細い髪がさらさらと揺れ、その容貌は一見すると女性のようだった。冷たい印象を与える瞳は色素も薄く、笑えば切れ長の瞳は下がり、人懐こく見せる。それでいて、ゆったりとした口調はどこかほっとさせてくれ、俺は彼のそばにいることが好きだった。そして、彼はしんしんと降り積もる雪を眺めるのが大好きで、雪が降れば頬を紅く染めながらただ立ち尽くし空を見上げていた。部活でいつも遅くなる俺を、そうやって待ってくれていた。忘れようとしていて、でも、それだけは忘れられなくて。


「雪弥。」


 声をかければ、頬を紅く染めた彼が振り返る。薄く口元に笑みを浮かべ、俺を見る。はあ、と吐き出した息は白く、そっと彼の頬に触れれば氷のように冷たかった。


「待ってなくて、いいのに。」


 言えば、彼は小さく笑って否定する。待っているわけじゃないよ。と、否定する。だた、雪を見ていたかったんだ、そう答える口元が俺はとても好きだった。真冬でも手袋をしないで彼は雪に触れた。指先は真っ赤に染まり、頬と同じように冷たくなる、そんな指先を俺はいつも温めた。自分の、部活で火照った身体を少しでも冷やすためだと言い訳をして、そっと彼の手に触れていた。握り締めればさり気なく引き抜かれ、俺はただ触れることしかできなかった。


「雪弥。」


 俺は彼の名前が好きだった。雪を「せつ」という音が好きだった。雪が、好きになりそうだと思った。白く、ただ音もなく降り続く雪さえ、好きになると思った。

 キシキシと雪を踏みしめて歩く俺たちはいつも言葉は少ない。俺よりも少しだけ背の低い彼をこっそりと見下ろしては、なぜか心が高ぶった。白い肌が寒さでよりいっそう白くなり、頬だけがうっすらと紅に染まる。そんな彼にやはり淡く恋をしていたのだろう。

 想いを伝えることさえままならず、俺はただ雪を見つめて俺を待つ雪弥を遠くから心の中でそっと抱きしめた。背中からすっぽりと彼を抱きしめ、温めてやりたいと思っていたのだ。

 そんな想いは届くはずもなく。

 雪弥は、届かぬ想いを胸に秘めた俺に気が付いていないように薄く笑う。毎日、「待ってなくて、いいのに。」「待ってるわけじゃないよ。」と言葉を交わし、冷えた彼の指先を温めながら帰る日々が続いた。

 変わらぬ日々が続くと思っていた。


 だけど。


 俺は。


 十一月半ば、まだ早いイルミネーションの点灯に心が弾んだある日のことだった。俺は、雪が降る中ちらちらと見え隠れする様々な色に目を奪われた。それをもっと間近で見たくて、急いで走った。するりと彼の手を離し、信号を、青に変わったばかりの信号を走って。

 後を追ってきた雪弥も走って。


 停まれなかった車が雪弥の身体を。


 どん、という音とともに倒れた雪弥を。


 俺は、ただ呆然と見ていることしかできなかった。言葉を失った。雪に埋もれたアスファルトに身を埋めた、雪弥の身体がぴくりとも動かずに。遠くに「救急車を!」と叫ぶ声だけが耳に残った。


 幸い、命には別状はないという。雪のため、スピードは出ていなかったのだ。ただ、ぶつかった衝撃で地面に叩き付けられた半身の神経に麻痺が残るかもしれないと、そう告げられたらしかった。

 何度も俺は雪弥の病室へ足を運んだ。相変わらず雪を見つめる雪弥を見るのが、俺にはとても辛かった。俺が走ったりしなかったら、雪弥は事故に遭わずに済んだのだ。そう考えて、俺は苦しくなった。


「雪弥。」


 呼びかけても、彼はもう薄く笑みを浮かべることはなかった。代わりに俺に労わりの瞳を向けるのだ。俺のせいだと自責する俺を、「きみのせいじゃない。」と否定する。「きみが気にする必要はない。」と言い切る。そうして、俺が雪弥の手を温めていたように、今度は雪弥が俺の手を温めていた。そっと触れるように包み込んで。

 責めてくれたらどんなによかっただろう。俺が悪いんだと言ってくれたら少しは救われるのかもしれないと思ったこともある。だが雪弥は、「きみは悪くないんだよ。」と否定し続けた。「雪は、滑るから。」そう言って、小さく笑っていた。雪弥は、車を運転していた人もうらんではいないという。

 雪弥は、すべてを受け止めていたのかもしれない。もしかすると、見えないどこかでやり切れない想いと戦っていたのかもしれない。そう言葉にすることで、自分を納得させていたのかもしれない。

 思うように動かない指先のリハビリで、だんだん会えない日々が続いて。俺はいつしか雪弥のいる病院へ向かうことも少なくなっていた。

 そうして、俺は。

 そんな雪弥から逃げるように、故郷から逃げ出した。

 雪弥も雪も、そのどちらからも逃げるかのように。


 毎年、冬になると雪を思い出す。

 雪を見ることもなくなり、すでに幾年か過ぎていた。雪から遠ざかりすべてを忘れることができると思いたかった。だけど、寒い空気は記憶を揺さぶりすべてを明確に思い出させるのだ。倒れて動かない雪弥を思い出して、あのときに感じた気持ちを思い出して、俺はどうしようもないほどに遣る瀬無い思いを感じてしまう。

 幾度、彼に手紙を書こうかと思ったことか。幾度、彼に宛てて出せない手紙を書いたことか。

 雪が、俺の生まれ育った場所で雪が降り始めるころ、俺は毎年彼に宛てて出せないと分かっている手紙を書く。元気にしているのだろうか、あれから身体は大丈夫なのだろうか。逃げ出してしまった自分が情けなく思われ、俺は結局手紙は出せないままなのだ。

 いっそのこと、忘れることができたなら俺は、幸せなんだろうか……、そんなことを考えてしまうこともしばしばで。ここ最近はとくに。

 冷え込みも強くて、ちらちらと積もらない雪が舞う姿を見ていると、心が落ち着かない。

 雪弥、きみに会いたいと思えば思うほど、俺は動けなくなっていく。


『きみが悪いわけじゃないよ。』


 あの日のきみの言葉がいまもなお、胸を貫いて行く。あの日、手を離した俺を、俺自身がどんなに責めてみてもきみはそれすらも許してしまうのか。そう思えば。

 机に向かいペンを取る。窓の外では相変わらず積もることのない雪がはらはらと降り続け、俺は黙ってそれを見ているのだ。そうして、きみに宛てて手紙を書く。

 最初のころこそ、いろいろ書いていた。怪我は治ったのか、元気でやっているのか、あれから身体の調子はどうなのか。だけど、いまは。

 一行しか思いつかない。


 きみに会いたい。


 ただそれだけが心に浮かぶ。雪が降る中、白い息を吐き出してうっすらと笑うきみに、会いたいと心から思う。

 もし戻れるのなら俺は。

 雪の降る中ただ黙って俺を待っていてくれたきみをそっと。

 背中から抱きしめているのに。


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