人待通り
鈍い風が頬を撫でた。疲れ切った身体にはそれすらも、ひどく痛みを感じてしまう。辺りを見渡せば、みな疲れ切った表情を浮かべ、手には荷物を持ちゆらゆらと彷徨うように歩いている姿が視線に入ってきた。
──終戦。
激しくぶつかった国同士の戦いは、日本が負けるという形で終戦を迎えていた。幾多の若い命を投じ、犠牲を払い、そして、日本は負けたのだ。
身に着けている軍服がやけに重く感じる。男は小さく息を吐くと、そっと風に撫でられた頬を撫でた。痩せこけた頬の骨ばった感触が指先に伝う。橋の欄干にそっと背を預け、男はその場にただじっと佇んでいた。することがないわけではない。途方に暮れていたわけでもない。狭山は、戦時中の約束を果たそうとしていたのだ。
『いつか、この戦いは終わるのだろうか。』
木造の官舎の中、しん、と静まり返った室内で、狭山と望月の二人がいつ敵機が飛んでくるかもしれない空をじっと見詰めていた。どちらも言葉も見当たらないとでもいうように、話すことはしなかった。
前方をぎりりとした瞳でにらみつけたまま、隣にいた男、狭山にそう吐き出したのだ。その言葉にどきりとした狭山は思わず彼のほうを見てしまったが、彼は狭山を見ようとはしなかった。まっすぐに空をにらみつけ、それきりなにも話そうとはしない望月を、狭山は言葉を出さすにじっと見詰めた。その視線の中で望月は小さな息を吐き出すと、うっすらと口元に笑みを浮かべ、「俺たちは生きて終戦を迎えることができるのだろうか。永遠にも続きそうなこの戦争から抜け出せると思うか?」と静かに狭山に問うてきた。
狭山も、その言葉にはすぐに答えることができなかった。なぜなら、狭山も望月と同じように考えていたからだ。
『なあ、狭山。貴様は、どう思っている?』
空を見ていた瞳がするりと狭山を刺した。どきりとするほどに真摯な瞳が狭山を見詰めている。狭山はその瞳から視線を離せないというように見詰め、しばしの間彼らはお互いを見詰めた。言葉もなく、静けさを割ってしまうほど大きな息をつくこともなく。
『──俺は、終わって欲しいと思っている。』
躊躇いがちに俯いて狭山が小さく呟いた。そして、ふう、と息を吐き出すとふたたび望月を見上げた。狭山よりもわずかばかり上にある双眸を見ると、その瞳にはどこか寂しげな色が浮かんでいるのが見て取れた。
『俺もだ。終わってくれたらいいのにな。』
はあ、と大きくため息を吐くと望月は床を見詰め、クスリと自嘲的な笑みを浮かべてみせる。
『だけど。』
自嘲的な笑みが浮かんだと思ったらそれはすぐに消え、悲しげな表情に切り替わった。狭山はなにも言えずただ望月を見詰めるだけだ。どこか寂しい気持ちが浮かんでは消える。もしも終戦を迎えたら、こうして望月と話すこともなくなるのか、そう思えば思うほど狭山は寂しさがよりいっそう増してきた。だが、狭山は望月が言い掛けた言葉の続きを待つように、なにも言わずに彼を見詰めた。
『だけど、俺たちはどうなってしまうんだろうな。俺たちは、こうして話をすることもなくなってしまうのか?』
ぽつりと、望月は言葉をこぼした。
『ああ。そうなるのかもしれないな。だが、俺たちがいまここで話をしていることは、きっと忘れることはないだろう?』
狭山はどこか寂しげに見える望月を励ますようにそう、力強く言葉を放った。こうして一緒に時を共にし、生死を共にした戦友のことを忘れるはずがないだろう。そう狭山は言いたかったのだ。しかし、望月の表情はいっこうに晴れる様子はなく、ますます悲しげな色に染まっていく。狭山はいま望月がどんな思いを描いているのかまるで分からず、それ以上言葉を続けることはできなかった。
『狭山、俺は──。』
言いかけて言葉を飲み込んだ。望月は辛そうに額へと手を当て、そのまま黙り込んでしまう。その姿はいまにも消えてなくなってしまいそうで。大柄な望月の身体がふわりと消え失せてしまいそうな感じがした狭山は、慌てたように望月の腕を掴んでいた。自分でも思いもよらないその行動に、狭山は掴んでしまった望月の腕をぱっと放してしまう。そして、バツが悪いというように苦笑いを浮かべると、空へと視線を投げた。
『ごめん、望月。俺、なに考えているんだろうな。』
あはは、乾いた笑いを漏らす狭山を、望月は驚いたように見やり、そしてうっすらと笑みを浮かべた。
『なぁ、狭山。終戦を迎えたら、俺たちもう一度会わないか? そして、また話をしよう。場所は、そうだな。あの橋だ。よく酒を飲みに行っただろう? あの店の前にある、橋の前だ。』
『・・・ああ。終戦が来たらそうしよう。』
そう、約束を交わした直後──。
『敵機だ!!!』
望月はそう叫ぶと、先ほどまで浮かべていた笑顔を引っ込め、厳しい顔をして前方をにらみつけた。狭山もその言葉につられるように空を見上げる。そこには、数機の戦闘機が群れを成してこちらへと飛んでくる小さな姿が見えた。
『狭山、約束だ。生きていることができたら、あの場所で会おう!』
望月はこの言葉を残して戦闘機へと乗り込んだ。狭山もそんな彼の後を追うように自機へと身を投じる。そして、二人は急激に空へと旅立ってしまったのだ。
それきり。
望月の消息は分からない。
あの日から数日後、終戦を迎えた。もう二度と、戦闘機へ乗り込むこともない平和な日々が約束されたのだ。狭山は奇跡的に無傷で終戦を迎え、日々、あのとき約束を交わした場所へと向かう。日が昇り暮れるまでただじっと橋の欄干に背中を預け、望月が姿を現すのを待っているのだ。だが、何日経とうとも望月はいっこうに姿を現すことはなかった。もしかしたら、最後の戦闘で彼はいなくなってしまったのかもしれない。どこかで生きているものの、動くことができないのかもしれない。
生きていないかもしれない、という思いはゾクリと狭山の背筋を凍らせる。最後に見たあの笑顔が忘れられず、そしてあの約束をも忘れられないでいるというのに。こうして、彼との約束を果たすべく毎日ここへ通ってきているというのに。
どうか生きていて欲しい。
瞳を閉じれば、その日の望月が鮮明に浮かび上がる。最後に見た晴れやかな笑顔がはっきりといまもなお、狭山の脳裏には焼きついているのだ。
死んでいたのなら許さない。
狭山は橋の欄干に背を預けながら、一人小さく思う。沈みゆく夕日に瞳を細めながら、今日もまたがくりと肩を落とすのだ。今日も望月は姿を現さなかったことへの、日々強くなっていく絶望感。否定すらままならないほどに募る不安。もしかしたらもう会えないのかもしれない。もしかしたら二度と彼の姿を見ることはないのかもしれない。大切な戦友である彼の生死すら分からない自分への、失望と深い悲しみが胸を覆っていく。
夕日は狭山の見ている中で徐々に姿を消し、気が付けば周りは漆黒の闇に包まれるのだ。
『よく酒を飲んだあの店……。』
それはすでに空襲で焼け落ち、原型をとどめてはいなかった。焼け落ちた家屋の前で狭山は背をもたれさせていた橋の欄干からそっと背中を引き剥がす。これ以上は待っているわけにはいかないのだ。
名残惜しげにそっと欄干へと手を這わせ、小さく息を吐く。
「今日も来なかったな。」
ため息交じりに呟かれた声は、風に乗りふわりと舞うがだれの耳にも入らない。狭山はゆうるりと背を向けると一歩ずつ橋から遠ざかっていく。いつ来るともしれない戦友を明日もまたここで待つために、今日は家路に着く。
明日こそ会えるだろう、いや、明日も会えないかもしれない。そんな思いを胸に抱きながら、狭山は家路へと着いた。




