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咆哮

 左手の薬指にはいつも、生涯の伴侶を手にした証がきらめいていた。それを見るたびに心が痛くて、つい意地悪をしてしまう。


「俺と会うときはせめて、それをはずして。」


「俺を抱くときはせめて、それをはずして。」


 そう言うと、彼は困ったように笑みを浮かべ、穏やかにゆるやかに、左手の薬指にはまった結婚指輪を抜き取った。俺はそれをただ、じっといつも眺めていた。いっそのこと、それを奪い取ってしまえたなら。それを捨てることができたなら、どんなに幸せなのだろうか。そう感じたこともあったけど、俺にはとてもそんなことをできる勇気なんてなかった。ただ、彼に嫌われてしまわないように指輪を抜く彼の動作をじっと見詰めるだけだった。

 一度だけ、彼は指輪を抜かずに俺を抱きしめたことがある。ひやりとした冷たい金属の感触が背中に伝い、それだけでどうしようもなく悲しい気持ちになったことは、彼はきっと分からない。


「妻とはもう、愛し合ってはいないんだ。」


 その場だけの悲しい言葉。彼は俯きがちにそう小さく呟いて見せるけど、小さく丸めた背中が哀愁を帯びていたけど、それはその場だけの言葉だと分かっていた。俺はただ、その言葉に小さく笑って返すしかできないでいた。


「愛している。」


 その言葉には偽りはなかったのだろう。俺だって彼を愛していた。なにを犠牲にしてもかまわないほどに。彼を。愛していたのだ。家庭の話をたまにぽつりと漏らす彼の言葉は俺にとってはとても痛くて重たくて。だけど、冷めたと言って彼は小さく笑みを浮かべる。


「家を出るよ。」


 俺たちが人目を忍び密会するようになってから数ヵ月。ぽつりとこぼした言葉だった。なに言ってるんだよ。言葉が咽喉まで出掛かって、そのまま飲み込んだ。このままいけば、彼は妻と別れてしまうかもしれない。社会的名誉や地位をすべて捨てて、俺を選んでくれるのかもしれない。そんな小さな期待が一瞬胸をよぎっていた。




『夫を返して!』


 泣き叫ぶような彼の妻の声がいまでも耳の奥に残っている。


『昭典を返して……!』


 昭典、彼の名前を呼び捨てにする妻の口唇が小さく震え、ゆがんだ頬には大粒の涙がこぼれ落ちていた。いつから私を騙していたの? いつからあなたたちはそうして愛し合っていたの? 男同士なのに! 俺を罵倒する言葉が彼の妻から吐き出されていく。それを俺はただ、遠くに聞いていただけだった。夢を見ていただけだったんだ、現実はこんなにも近くにある。俺は思いながらゆったりと彼を盗み見た。口唇をきつくかみ締めたままに小さく俯いた彼の姿。


「妻はもう、俺のことなんて愛してはいないよ。」


 彼の言葉が思い出されたが、やっぱりあれは嘘だったんだな、とどこか他人のような感じでそう、思った。言葉を飲み込むかのように沈黙を続ける彼の代わりとでも言うように、彼の妻が言葉をまくし立てる。まるで彼の気持ちを代弁しているとでもいうように。


『あなたはただ、遊びたかっただけなのでしょう? ただ、だれかを抱きたかっただけなんだわ。私の身代わりを作りたかったのでしょう?』


 妊娠中の妻が出産のために里帰りしていたほんの数週間、その寂しさに耐え切れずに彼は俺を選んだと言うのか。必死の形相をして彼を見上げる妻がどこか滑稽で、俺は現実から一歩離れたところにいる気分だった。『悲劇のヒロイン』という言葉がお似合いの表情。差し詰め、俺は悲劇を生む悪役でしかないのだ。


『男だったら妊娠なんてしないものね。昭典はただ、あなたじゃなくても良かったんだわ。』


 はっとしたように彼を見上げると、なぜかそこには安堵の色を滲ませた顔があった。彼は妻の言うことに、自分が庇護されているかのような安心感を感じたとでもいうのだろうか。俺はただ、そんな彼の表情に愕然とした。いままでの言葉が本音を語っていたとは思わなかった。どこまでも嘘かもしれないと疑っていた。でも、心のどこかではもしかしたら彼の言うことは本当なのかもしれないと淡い期待を抱いていた俺がいて。


「ああ。智樹くん、俺は妻とは別れるつもりはないんだ。」


 ぽつり、妻に凝視されていた彼が小さく言葉をこぼした。不慣れな「くん」をつけて俺の名前を呼んだ。妻とは別れるつもりはない。そう俺に向かって言い切ったのだ。そこまではっきりと言い切れるのに。妻のためなら俺を簡単に傷つけるのか。それとも違うのか。すべてを捨てることなどできはしない、と悟ったのか。それとも最初からそのつもりだったのか。


「人の幸せは、だれかの不幸せの上にあるもんだ。あんたらの幸せは、俺の不幸せの上に乗っかってるんだろう?」


 俺はこれ以上はその場にいられなかった。これ以上、彼の口唇からこぼれる言葉を聞いていたくはなかった。俺に語られた言葉はすべて偽り以外のなにものでもなくて、彼は本当は妻を愛していて。俺なんて、微塵も愛してはいなかったのだ。幾度も俺に愛の言葉を囁いたのと同じ口唇で、それらすべてを否定したあの人の心が、俺の身体を心ごと切り裂いたような感覚だった。ざくりと言葉を突きつけられて、そのまま両手で一気に裂かれたような、そんな感じだった。ぐ、と握り締めたこぶしがぎりぎりと震え、手のひらに爪が食い込んでいく。ぷつ、と音がして、手のひらに鋭い痛みが走った。それでも俺は、痛みでは涙は流れることはなかったのだ。裂かれた心が、ただじんじんと痛んだ。痛んで、どうしようもなかった。




 手痛い失恋は俺を絶望へと追いやって、自暴自棄にさせていった。だれかと一緒にいたくて、寂しいと感じる自分をかき消したくて。傍に居てくれるだれかを探して歩いていた。身体だけの関係をいったい幾度繰り返したのか。一晩限りの温もりをいったい幾度求めたのか。そうして夜を超え、朝を迎えるころ、俺は何度も後悔と絶望の淵に立ち尽くしていたのだ。何度も己の手を掻き切ろうともした。ナイフで自分の皮膚を切り裂いた感覚はいまでも覚えている。流れ落ちる血液が赤く腕に絡まるように滴り落ちていく姿を、俺は痛みさえ感じることなく、飽くことなく、見つめていた。

 流れ伝う血を見ると、俺は生きているんだと実感できた。心は死んだとしても身体はこうして生きている。そう思えた。皮膚に当てたナイフの冷たさだけが俺を正気に返してくれていたのだ。ひたりと皮膚に鋭いナイフを押し当てて、すう、と引く。すると赤い一筋の線ができ、つう、と腕を這うように血が流れて落ちていくのだ。痛みは感じなかった。

 あれから数年が経ったいまでも、その傷跡は消えることはない。醜く引き攣れた皮膚が、自分自身を傷つけた俺を責めるかのようにしていまだ腕に残る。その傷を見るたびに俺は人を愛することを拒み続けた。もう人を好きにはなりたくないんだと、そうぎりぎりの淵に突っ立ったままの俺が叫ぶのだ。咆哮にも似た、叫び。涙はいまだに流れ続けた。いつしか枯れた涙に代わって、赤い血が涙のように流れて頬を伝っても、それでも、俺は、俺の心は啼くことをやめなかった。

 これ以上傷つくのはいやだ。

 人を愛して、その心ごと裏切られるのは、もういやだ。


 これ以上は、人を愛したくはないんだ。


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