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僕の視線の先にはいつも、きみがいた。

 ──朝。


 張り詰めていた冷たい空気が、ほんのりと和らいできた春の早朝。朝もやの残る中頬を撫でる風が心なしか温かく、そして穏やかに感じ始める。毎朝、新聞配達をしていた西岡は、そんな冷たさの和らいだ風を頬に受けてひとり、春を感じていた。

 誰もいない道を、新聞の束を肩からぶら下げて居住区を歩きつつ、各家へと新聞を投函していく。春になるといつも、新しい制服を着た若者たちが姿を現し、西岡はそれを微笑ましくも羨ましい気持ちで眺めていた。家が貧しいために、望んでいた兵学校へと進むことができぬまま、もう数年。毎朝新聞を配達し、その後、違う職をしながら家計を助けていたのである。

 昭和初期──、それが当たり前といえばそうなのかもしれなかった。




「おはようございます。」




 玄関脇に誰かが立っていたら、必ず交わしていた朝の挨拶。にこやかに挨拶をすれば、たいていの人間は答えてくれていた。西岡はけして強面するほうではなかった。どちらかといえば好青年で、だれからも好かれるような陽気な気持ちの持ち主でもあった彼は、いつものように、玄関脇に立っていた青年へと声をかける。


「おはようございます!」


 初めて見る青年だった。真新しい軍服に身を包んだ美丈夫が、新聞受けの脇に凛々と立ち尽くしている。西岡はその初めて見る姿に奇妙に鼓動が高鳴りつつも、やはり、いつもと同じように笑顔で彼に挨拶をした。ちらりと視線を向けて、彼は小さな会釈をすると西岡の差し出した新聞の束をそっと受け取った。あまり日に焼けていないのか白い手が印象的だった。

 西岡はおずおずと手を差し出してくれた彼に対してにこやかな微笑みを向けると、次の家へと配達を急ぐ。隣の家へと新聞を配達しながらふと振り返ってさきほどの家を見てみると、そこには、新聞を手にしたままの彼がなにか言いたげに、西岡のほうを見ていたのが分かった。その視線にかすかにどきりとした鼓動を感じて、西岡は自分の胸をぐ、と抑える。その瞬間に西岡は地面を見詰めた。足元に転がる小さな小石が視界に入り、ふと、もう一度見上げてみる。だが、その先にはもう誰もいなかった。西岡にはそれが朝もやに煙る幻かなにかのようにも感じた。


 翌朝、いつものように配達に出掛ける。しかし、今日はいつもと気分が違う。もしかして昨日の彼にまた逢えるかもしれないと思うと、心がざわざわとざわめくのだ。白くほっそりとした指先が、西岡の渡した新聞をそっと受け取ることを思うと、心が騒ぎ出す。そのことを思うだけで心が跳ね上がりそうになる。早くあの家にたどり着ければいいのに、と配達の途中何度もそう思った。


「おはようございます! 今日も早いですね。」


 昨日とほぼ同じ時間に西岡はその家にたどり着いていた。そして、彼は今日もまたそこに立っていた。朝もやの中で、まるで幻か何かのように。西岡がにこやかに話しかけるものの、彼は昨日と同じようにきっちりと軍服を着こなして小さく会釈をして返す。そして、差し出された新聞を白くほっそりとした手で受け取るのだ。言葉を交わせないものの、西岡はなぜか心に温かいものが広がっていくのが分かった。じわりと染み入るような、ほっこりとした温かい感情が西岡の中にわき上がる。新聞を受け取った手を見ると西岡は彼に笑みを残して隣家へと向かうのだ。そして、振り返る。振り返った先にははやり、彼がいた。こちらをただ、見詰めている彼が見えた。




 そんなある朝のことである。西岡が起きてみるとどうも、咽喉がいがらっぽい。張りのない声が掠れて出てきた。これは風邪か、と思いながらそれでも、勤務先には顔を出した。まだ、大丈夫だろう。そんな気持ちで配達所へと顔を出し、いつものように新聞の束を受け取って肩からぶら下げて、配達所を後にする。ゴホ、と小さくセキをしながらも西岡は今日も、いつものように配達する地区へと足を向けた。




「おはようございます。」


 ゴホ、と小さく咳き込みながら、いつものように玄関の脇に立っている彼へと挨拶をする。掠れた声が忌々しい。いつもとは違う掠れた声に声を掛けられて、ぎょ、としたように西岡のほうへと視線を向けてきた。いつもの涼やかな眼差しは心配げに染まり、じっと西岡を見上げてくる。西岡はその瞳にどきりとしながらも、やはり、いつものように新聞を手渡した。

 そのときである。

 ひやりとした指先が、西岡の手に触れた。偶然なのだろう、新聞を受け取ろうとした彼の指先が西岡の手の甲をくすぐるかのように、さわりと。は、としたように西岡は彼を見下ろし、彼もどきりとしたように西岡を見返してきた。


「あの、お風邪、大丈夫ですか?」


 途切れ途切れの声が、ぽそりと漏れた。姿に似合う涼やかな声だった。


「え……。」


 西岡は一瞬なにを問われたのかまるで分からなかった。初めて聞いた彼の声だと認識できるまでに数秒。それが自分に対して労わりの言葉であると理解するまでに、さらに数秒。


「あ、ああ。大丈夫ですよ、ありがとうございます。」


 にこ、と笑顔を向けて西岡は咄嗟にそう、返していた。そして、彼がいつものようにふと玄関の中に姿を消す、と思って背を向けようとすると、小さな声が背中に聞こえた。


「軍でも風邪が蔓延していて、いまは高熱が出るらしいのです。お気をつけくださいね。」


「あ、あなたは、軍人だとは思えませんね。」


 西岡は振り返るとそう、思わず呟くように言っていた。軍人とはもっと堅苦しい話し方をするかと思っていたのだ。その言葉に薄く笑みを浮かべた彼は、困ったように首に手を当てて小さく漏らす。


「ええ。僕は、軍の中でもそう言われていますよ。もっと男らしくしろ、と。」


 そう言いながら佇むその姿は、背筋が凛としており視線も柔らかでありながら、どこか強い意志を感じさせる瞳をしていた。軍服に包まれたその四肢はたしかにほっそりとしているものの、意志の強さは誰よりも男らしいと思わせる。


「あなたはそれでいいですよ。」


 ぽろりと言葉がこぼれた。西岡は自分でも気が付かないうちにそう、言葉をこぼしていた。西岡は自分で言ってどきりとしたように口へと手を当てて、彼を見る。彼もまた、は、としたように西岡を見ていた。こんな情景を見るのは、今日はこれで何度目か。


「そう、ですよね。」


 困ったような薄い笑みがふわりと浮かぶ。だが、うっすらと紅に染まった頬が、西岡の言葉をけして嫌がっているわけではないと思わせた。


「ええ。あ、俺、西岡っていいます、また明日、少しでもお話、しませんか?」


 西岡は、すぐにでも玄関へ踵を返してしまいそうな彼に向かってそう、言った。彼はその言葉にわずか躊躇うかのように俯くと、またすぐに顔を上げる。西岡は(まずいことを言っただろうか)という気持ちを感じたが、それはすぐに打ち消された。彼の上げられた顔には、いままでにないほど輝いた笑顔が浮かんでいたのだ。


「ありがとう、また明日、ですね。あ、僕は乃木原、といいます。」


 はにかんだような笑みに彩られ、西岡は初めて名前を知ることができた。また、明日。その言葉がやけに温かくて胸をくすぐった。自然とわき上がるような笑みが溢れ、西岡はそれじゃ、と手を振ってその場を後にする。配達がなかったら、このまま話を続けたい気持ちになっていただろう。

 背を向けて歩き出す西岡へと、乃木原の声が掛けられる。


「西岡さん、お風邪をお大事に!」


 西岡はくるりと振り返ると、「ありがとうございます、乃木原さん。」軽く会釈をしてもう一度手を振った。視界の中で乃木原が恥ずかしそうに、でもちゃんと手を振り返してくれている。その姿を見つめながら西岡はなぜか、幸せでいっぱいの気持ちになっていた。


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