きみの飛ぶ空
「空って、綺麗だよなぁ。」
成沢はゆったりと空を仰ぐと、背後を歩いていた波多野へと声を掛けた。波多野は振り返り様唐突にそう言われ、慌てたように言葉を探す。言葉が見付からないままに成沢をただ見詰めると、クスリと小さく笑みをこぼした成沢は、「波多野、お前は綺麗だとは思わないのか?」と問うた。問われて、波多野が改めて空を仰ぎ見る。たしかに空は青く澄んでいて、とても綺麗だ。波多野はまぶしそうに瞳を細めると、手をかざして「ああ、綺麗だな。」と返していた。
「そうだろう? 俺たちはあの空を飛ぶんだ。」
ふわりと赤茶けた髪をなびかせてにこりと笑みを浮かべた成沢が、嬉しそうに晴れやかな笑顔を浮かべて波多野を見ていた。波多野は空を見上げてまぶしそうにしている成沢のそんな微笑みに思わずどきりとし、苦笑を浮かべた。
綺麗に真っ青な空がふと視界に飛び込んでくる。いつのころか空を見上げることなど、とうにしなくなっていた波多野はまぶしそうに空を見上げて、小さな息を吐いた。その瞬間に、心の奥底へと閉じ込めていた記憶・想い出が頭の中を駆け巡るかのようによみがえってくる。波多野はよみがえってくる想い出に思わず瞳を見開き、年老いた手で目頭を押さえて、わずかに俯くと涙をそっと拭った。
海軍兵学校に同期で入校し、配属された先の部隊でも一緒だった空を飛ぶことが誰よりも好きだった男がいた。切れ長の瞳をゆるやかに微笑ませ、赤茶けた髪を風になびかせていつも空を眺めていた。憧憬を抱いているように、まるで空をなによりも愛しているような視線で。
仲がよかった波多野だったが、遠目に見える彼の、いつも空を見上げる姿がすごく印象に残っていた。その姿があまりにも綺麗で、純粋でいて。波多野はいつもそんな彼から視線を離せなかった。彼の瞳に浮かんだ、自分にはないその色に、その強さに惹かれていたのかもしれない。
「だから、飛行科にきたのか。」
苦笑を浮かべた波多野は、ゆったりとした歩調で成沢の隣へと歩み寄る。そして自分よりもわずかに背の低い成沢を見下ろすと、低い声でそう呟いた。
「そうだ。俺はあの空を飛びたい。」
空を見詰めていた瞳は、その言葉を聞いたその瞬間に真っ直ぐに波多野を見詰め、そう返した。凛々とした瞳には一点の曇りもなく、波多野はあまりにもストレートで明快な成沢の言葉に驚きを感じ、なにも言えずにじっと彼を見下ろした。
そのときの成沢は澄み切った瞳を浮かべており、波多野はそんな成沢に視線を奪われる。どきりとした鼓動に波多野は小さく動揺し、小さな苦笑を浮かべたのだった。
波多野と成沢は海軍飛行予科練習生だ。大空への憧れを胸に秘め、日夜飛行の訓練に明け暮れる日々の中、わずかな時間を二人は共に過ごしていた。
初めて練習用の戦闘機に乗ったとき、波多野は操縦桿を持つ手が震えたが、成沢は下界に広がる大地が綺麗だとそう、話していたのを波多野はいまでも覚えている。そのときに見せた成沢の表情がとても綺麗で。成沢は練習生の中でも美丈夫で芯の強い男だった。何度か呼び出され不当な扱いを受けそうになったこともしばしばだったが、その度に成沢は殴り返してやったと、傷だらけの表情に笑みを浮かべて答えていた。綺麗に整った顔に傷を付けるのはどうか、と何度か問うたこともあったが、「男の顔に傷は勲章だろう。」といとも当然というように返される。それもそうか、と納得した波多野は、それ以来ウマが合うのだろう成沢と時間をよく共にするようになっていった。
「なあ、波多野。」
とある晩のことである。皆が寝静まりシーンとしいていた闇の中、隣で就寝していたはずの成沢が波多野のほうをじっと見て声を掛けてきた。
「眠れないのか?」
ごそりと寝返りを打ち、波多野が成沢のほうを向いた。真顔で波多野を見詰める成沢と視線が合って、わずかに動揺してしまう。
「お前は、どう思う。」
唐突な質問だった。なにが、と問うこともできたが波多野にはすぐになにが「どう思う」、なのか理解できてしまう。
「ああ、これから先は辛いだろうな。」
これから先の帝国がどうなるか、という話であった。以前、二言三言そのことについて言葉を交わしたことがあったのを、波多野は思い出した。
『空を飛べるのは嬉しいが、死にいくのに空を飛ぶのは嬉しくないな・・・。』
ぽつりと小さく呟いた成沢に、波多野は自分も同意であることを告げたのだ。そのときはそのまま笑って終わったのだが。
「そうだろうな。俺たちもいつか出撃する日が来るだろう。俺は、悔いの残らないようにしたいと思うんだ。」
思えば当然であり、意外でもあった成沢の言葉に、波多野は返す言葉が見つからずそのまま黙ってしまう。闇の中から小さく息を吐く音が聞こえ、「俺にも、悔いはあるのさ。」と小さな言葉が返ってきた。波多野はその言葉に奇妙にどきりとした。
「あ、ああ。そうだろうな。俺も、悔いのないようにしたいな。」
波多野はそう、成沢に返したがそれきり、成沢はなにも言うことはなかった。闇の中からじっとただ、吐き捨てるような吐息が聞こえてくるばかりだった。
色褪せない記憶は、年老いた波多野の想いを呼び起こすには十分だった。
蒼く、果てしない蒼へ若い命を散らした彼を、まるで封印でもしてしまうかのように記憶の奥底へと押し込めてしまっていた。空を見上げることさえも、忘れていた。
己を見、微笑みを浮かべるその動作の一動一動までもが記憶の中によみがえる。空を見上げていた成沢が、風に髪をなびかせて振り返る。そして、笑顔を浮かべて波多野の名前を呼ぶ、そんな些細なことさえも。
なぜ記憶の奥底に閉じ込めてしまっていたのか。波多野の心に、当時抱いていた淡い想い込みあがってくる。
「成沢……。」
小さく、しわがれた声が彼の名前を紡ぐがしかし、その声はあまりにも小さく、空にさえも届くことは無い。成沢が見上げていた空に、声は届かない。
昭和十九年──、神風特別攻撃隊への出撃志願が応募された。波多野は思いもかけないこの出来事に、ただじっと俯くばかりだったが、カツと靴の音を立てて成沢は、一歩前に出ると真っ直ぐに前を見つめ、「私は志願いたします。」としっかりとした口調で言った。ざわ、と小さく辺りがざわめいた。波多野はそんな成沢の後ろ姿を驚いたように見つめた。どきりと胸がざわめいて、鼓動がやたらと大きな音を立てているような感覚に襲われる。
『死に行くのに空を飛ぶのは嬉しくないな。』
そう呟いた成沢が誰よりも先に志願したからだ。なぜだ、成沢。そうは思うが言葉にはならなかった。
「なあ、なぜなんだ? 貴様は『死に行くのに、空を飛びたくは無い』と言っていたじゃないか。」
波多野は先を歩く成沢の背中にそう問い掛ける。成沢は歩いていた足を止めわずかに波多野に振り返ったが、いつもは真っ直ぐに向ける瞳を伏せてしまったままなにも語ろうとはしなかった。伏せられた瞳に映る色が、なぜか波多野には悲しそうな色に見えて、どきりと鼓動が跳ねあがる。いままでに一度たりとて、成沢のそんな表情は見たことがなかったからだ。
しばらくの沈黙が波多野と成沢を取り巻いていく。が、唐突に成沢は言葉を紡いだ。
「なぜ、だろうな。」
俯いて、ぽつりと。
そうして、自嘲めいた笑みを口元へと浮かべた。だが、すぐに空を見上げると、ぐーんと背伸びをするように両手を伸ばしてから、波多野にくるりと振り返る。そのときに浮かんでいた笑顔はすでに自嘲めいたものではなくて。
「俺が先に出れば、もしかしたら生き残るやつがいるかもしれないだろ?」
まるでなにかを振り切ったような、そんな口調だった。
波多野はそんな成沢の言葉に、まるで心臓を鷲掴みされたような錯覚に捕らわれて、「貴様が死ねば、俺が悲しむ!」と思わず声を張り上げていた。はあ、と息をついて成沢を見ると、彼は驚いたように瞳を見開いて波多野をじっと見詰めていた。だが、次の瞬間にはまるで当たり前だろう、とでも言うような口調で、「そんなことは分かっているさ。」と返してきた。
「お前、なに言って……。」
驚きの声を上げる波多野の襟を、わずかに小柄な成沢がぐいと引き寄せた。
わずかに頬に触れたその口唇は、なにか言葉を紡いだようにかすかに動き、すぐに離れてしまう。まるで一縷の風が波多野の頬を撫でていくかのようにふわりと触れて、すぐに離れていったかのようだ。波多野はほんのわずかなその感触に呆然としたまま、離れていく成沢の口唇を視線で追った。その口唇はやんわりと笑みの形をかたどると、「お前は生き残れるといいな。」呟いて踵を返す。
「成沢!!」
波多野の声が成沢を呼んだが、成沢は片手を上げて返事をすると振り返ることなく歩いて行ってしまった。
「なにが言いたかったんだ?」
呆然と彼の後ろ姿を見送った波多野には、そのとき成沢がなにを呟いたのかまるで、分からなかった。
呟きは、後になって知った。
あのとき成沢は、波多野の頬にそっと「好きだ」と囁いていたのだ。それは、彼の遺品から察することができた。
成沢の遺品の中に、とても大切そうに白い布に包まれた写真が一枚あった。それは、いつか記念に撮っておこう、と二人で笑い、そうしてお互いを写したものだった。写真を撮られることにあまり慣れていない波多野の、はにかんだ笑顔が写っている。その写真の裏には、こう記されていた。
「最愛の人、波多野。昭和十六年四月九日
この写真と一緒に空を飛ぼうと思ったが、貴様を道連れにはしたくはない。どうか生き抜いてくれ。俺の想いは空へと散るだろう。 成沢」
それだけが。
その文字を読んだとき、波多野はまさか自分のために成沢が志願したのかと思った。そうであるなら、なぜ自分も志願しなかったのか。なぜ、彼を一人逝かせてしまったのかと、後悔したのだ。
空を見上げると、最後に見た成沢の笑顔が浮かんでは消え、波多野はただはらはらと涙をこぼした。一人残された寂しさが、成沢の死後ぽっかりと開いたままの胸の空洞を突き抜けていく。それがあまりにも辛くて、波多野はいつしか空を見ることを止めてしまった。成沢のことも、思い出さないよう心の奥底へとしまい込んで。ただ、「生き抜いてくれ」という言葉だけを胸に刻み、思い出すことを止めてしまった。残された自分が苦しかったのだ。
いまだに波多野に悔いは残るまま。
空を見上げると、いつも見ていた成沢の振り向いた瞬間の笑顔が浮かんでは──すぐに消えていった。




