手を差し伸べてみても。
昭和十九年、神風特別攻撃隊が出撃。帰らぬ若い命が太平洋へと散って行った。
「なぜです? なぜ、私の志願を聞き入れてくださらないのです?!」
若き青年操縦兵が、幾分年上であろう物静かな男に食ってかかっていた。物静かな男は若き操縦兵の上官である。
「妻子あるものは、少しでも長く生き長らえろ。」
静かに、本当に静かにそう言うと、男は切れ長の瞳を伏せた。わずかに震える睫毛は、彼の心中を物語っているようで。しかし、若き操縦兵にはそこまで見えていない。
「驫木中尉! あなたは出撃なさるのに、なぜ?!」
その言葉にぴくりと眉を顰めると、驫木は射抜くような視線を操縦兵に向ける。そうしてから静かにため息をつくと、困ったように額に手を当てた。
「私には、家族というものはない。私が死んでも、悲しむものはいないからだ。お国のために出撃するだけだ。──中塚、私は貴様とは違う。」
その言葉に中塚は、ぐ、と息を呑んだ。その言葉を否定できないと分かっていたからだ。
家族、確かに中塚には家族がいた。厳格な父親に流されるようにして、一年前に契りを結んだ若き娘が、いた。
中塚が出征する日、涙ぐんだ瞳で中塚をじっと見詰め、『生きて帰ってこれたら──。』と小さく呟いた娘。その娘のことを言っているのだ、この物静かな上官は。
「し、しかし!!」
なおも食い下がろうとする中塚を、一瞥でもって制した驫木はこれ以上話すことはないとでも言うように背を向けると、足音も静かに立ち去ってしまう。その後ろ姿は消えてしまいそうで、儚くて。
「驫木中尉!」
中塚は思わず彼の名前を呼んだが、驫木は立ち止まることはなかった。
出撃を控えた飛行場は、ところどころに爆撃の跡を無残に残しつつも静まり返っている。その中に一人取り残された中塚は、どうしようもない憤りを抱えたまま、こぶしを握り締めていた。先ほど立ち去ってしまった驫木があまりにも冷静に対応するさまが、中塚には耐えられない。己も出撃するくせに、なぜ自分には出撃するなと告げるのか。
共に戦場を渡り歩いた仲だというのに、なぜ。
風の便りに聞いた。妻子あるものとて、志願を受け入れられたと。だから自分もこうして上官に志願したというのに。
『貴様には、家族があるだろう。』
その驫木の言葉が耳について離れない。たしかに、国に残してきた娘は気にかかる。しかし、中塚の気持ちはなぜか伏せた瞳が悲しく見えた驫木へと向かってしまうのだ。
『私には家族がない。』
驫木の言葉が耳に響く。中塚は奇妙な憤りと、己の思いを受け入れてもらえない苛立ちを胸に抱えたまま、愛機へと足を向けた。
共に空を駆使し、数機の敵を落とした零戦闘機。赤い日の丸だけが中塚の瞳にむなしく映る。その日の丸がじわりとにじむ涙で歪んだ。中塚はゆったりと手を伸ばし、愛機へと触れる。金属の冷たさとなじんだ感触が手のひらに伝わってきて、中塚はぽつりとこぼした。
「お前はだれと空へ旅立つのだ? 俺を一人残して、お前は空に散るのか?」
戦友の半分以上はすでに特攻隊への志願を果たしていた。
驫木の率いる分隊の半数は、驫木を筆頭に特攻隊で出撃してしまうのだ。早ければ何日か後には、生きて戻ってくることはない空へと飛んで行く。それをただ黙って見送るのがどれほど辛いことか、驫木は知っているのだろうか。
「中尉は、馬鹿だ。」
ふたたび、中塚から言葉がこぼれて落ちた。
「俺は、馬鹿、か。そうかも知れないな。」
独り言は、驫木の耳に入ってしまう。中塚は驚きに瞳を見開くと、驫木を凝視した。
「貴様が、なぜ志願したがるのか分からない。生きて、愛する者の元に帰るということほど、嬉しいことはないだろう?」
くすりと笑みを浮かべて驫木が中塚を見た。
「しかし……。」
言葉を濁す中塚を、面白そうに見詰めてくる驫木は、被っていた軍帽を深くかぶり直した。中塚はしかし、かぶり直す瞬間にちらりと見えてしまったのだ。驫木の瞳ににじむ涙を。こぼれ落ちる寸前に、軍帽をかぶり直したことに気が付いてしまった。
「驫木中尉……。」
驚きと困惑とが入り混じったような声が、中塚から漏れる。無意識に中塚は驫木の肩を掴み、引き寄せてしまっていた。見た目よりもずっと薄い肩が、驚きにびくりと小さく揺れる。
「──!」
見開かれた瞳が真っ直ぐに中塚を見、なにか言葉を話そうとしたのか、うっすらと口唇が開いている。中塚はそれに惹かれるようにゆったりと、己の口唇を重ねていた。薄い口唇の冷たい感触が、自分のそれにじんわりと伝わってくる。何度も角度を変えて、中塚は我を忘れたように驫木の口唇を味わった。
口唇を離し、中塚はそのまま驫木を胸に抱き入れる。折れそうなほどに細い肢体が中塚の腕の中でもがき、中塚のその手を振り払おうとした。だが、中塚は身体の中から涌き出て止まない己の衝動に突き動かされるように、驫木を離そうとはしなかった。
「中塚……。」
驫木の苦しげな声が中塚の耳に入る。きつく抱き締めていたせいなのか、驫木の顔は苦しげに歪んでいた。
「……離してくれ。」
中塚の腕が緩んだ瞬間に、驫木はゆったりとした動作でそっと中塚の胸を押し返す。
「驫木中尉、私は……。」
中塚はそれでも驫木の腕を掴んで離そうとはしなかった。言いよどんで、はたと思いとどまる。この男に自分はなにを言わんとしていたのか、考えてしまったのだ。
「明日、散るとも分からない俺に、同情でもしたというのか。中塚。」
驫木は自嘲めいた笑みを口元に浮かべ、じっと中塚を見上げてくる。中塚はそのとたんに自分の中に湧き上がる、この男に対する感情を知ったような気がした。同情ではない感情が、友情では説明のつかない感情が心に染み渡っていく。国に残してきた己の妻に抱く感情とはまったく別の、激しいほどの衝動が中塚を突き動かした。
さきほどとは違い、今度は意図をもって驫木へと口付けをする。しっとりと口唇を重ね、しっかりと腰を抱き寄せ逃げることは許さないと言わんばかりに。今度は驫木も黙ってはいなかった。中塚のした行動に抗い始める。だが、力の違いは明白で、驫木は中塚のされるままに身を委ねざるを得なかった。
ゆったりと身体を横たえられながら、驫木の視界の端に中塚の愛機である零戦闘機が映って見えた。
冷たいコンクリートが背中に当たる。驫木はその冷たさとは裏腹に、焼けるほどに熱い中塚の手のひらの温度を感じながら、ただじっと飛行場から見える空を見詰めた。暗闇の中から、いつ、敵の戦闘機が飛んできてもおかしくは無いご時世だ。だが、驫木は中塚の手によって己の肌が露になっていくのを止めようとは思わなかった。
妻があるこの男に、いつの間にか惹かれていた自分を驫木は知っていたのだ。だから、中塚が特攻に志願してきたとき拒んだ。一人身ではないことを理由に、少しでも長く生きて欲しくて。その想いが溢れ出しては驫木を苦しめる。想いを胸に秘めたまま空に散ることができるなら、それが本望だと、ずっとそう思ってきた。だが。こうしていざ中塚の体温を知ってしまうとその気持ちも揺らいでしまう。
「驫木中尉……。」
熱い吐息と共に吐き出される己の名前を、驫木は胸が震える想いで受け止めてしまう。けして想いを告げてはならないと胸に押し留め、それでもなお、もう一人の自分が中塚へと想いを吐き出してしまいそうになる。想いを込めて、中塚の背中を掻き抱きそうになってしまう。
「驫木中尉……。」
狂おしいほどに求められ、驫木は息をつく間もないほどにただ中塚を受け止めるばかりだった。
ひんやりとしたコンクリートに身を横たえたまま、驫木はぼんやりと中塚の愛機を見やる。そっと掛けられた上着が夜風に冷える身体を温めてくれ、驫木はなにも言わない中塚の気配を窺った。
「……。」
言葉もないままに自分を見下ろし、上着からはみ出た肩をいとおしげに撫でている中塚の瞳が細められる。じわりと溢れた瞳か
らはぽたぽたと涙がこぼれ、小さな言葉が囁かれた。
「……驫木中尉。私は、あなたを失いたくはないっ。」
驫木の肩を掴む中塚の指に力がこもる。驫木は横たえていた身体を起こして中塚を見詰めると、うっすらと笑みを湛えた。そうして、ゆったりと中塚の頬へと手を伸ばす。
「同情ではないんだな。」
驫木の言葉に驚いたように瞳を見開いた中塚は、大きくそれを否定する。
「同情ではありません。私はあなたを……、」
「ならば、中塚。貴様の着ている軍服を俺にくれないか。──俺は、貴様の軍服を着て、特攻に行きたいんだ。」
「驫木中尉!」
驫木は自分に掛けてあった中塚の軍服を手にすると、そっと頬を寄せた。
「これを着て、俺は死への空を飛ぼうと思う。だから、中塚。悲しまないでくれ。」
数日後、驫木は神風特別攻撃隊として出撃。他数機の特攻機と共に敵空母を撃沈させた。
中塚の軍服に袖を通し、驫木は愛する男の軍服と共に海に散って行ったのだった。




