第33話 春の街へ
王都グラン・アヴェルラに、遅い春が訪れていた。
石造りの冷ややかさが代名詞だった第一地区の屋敷――かつて「氷の鳥籠」と呼ばれた場所にも、柔らかな陽光が降り注いでいる。
ベラ・ガーランドがこの屋敷の主、クラリス・フォン・アルゼインと共に暮らし始めてから、季節が変わろうとしていた。
休日の朝。
寝室の窓からは、庭に咲き乱れる花々の甘い香りが風に乗って漂ってくる。
だが、今のクラリスにとって、それ以上に甘く、そして悩ましいのは、目の前にいる専属衣装係の行動だった。
「……んっ……ベラ、そこは……っ!」
「動かないでください、団長。正確な数値が取れません」
寝室の中央。
下着姿のクラリスに対して、ベラは真剣な眼差しでメジャーを当てていた。
その手に握られているのは、かつてクラリスがプレゼントしてくれた、銀の箔押しされた革巻きのメジャーだ。あの日の事件で泥と血にまみれたそれは、ベラの手入れによって今は飴色に輝き、滑らかにクラリスの肌を滑っていく。
「ふむ……太ももの内側、少し筋肉が柔らかくなりましたね。平和な証拠です」
「そ、そうか……。なら、もう終わりでいいだろう?」
「いいえ。次は二の腕の内側と……首筋の『感度』も測っておかないと」
「はぁ!? 服を作るのに感度など関係ないだろう!」
クラリスが顔を真っ赤にして抗議するが、ベラは「着心地には精神的なゆとりも重要ですから」と涼しい顔だ。
ベラの指先が、首筋から耳の裏へ、這うように撫で上げる。
ピクリ、とクラリスの肩が跳ねた。
「ひゃぅっ! ……ベ、ベラぁ……」
「ふふ。いい反応です。……ここを締め付ける襟のデザインは避けたほうが良さそうですね」
ベラは楽しそうにメモを取る。
これは「採寸」という名の、公然たる愛撫だ。
クラリスもそれに気づいてはいるが、ベラの職人としての真剣な目(と、時折混じる熱っぽい色)に見つめられると、どうしても拒めない。
「……ベラ」
クラリスは潤んだ瞳で、上目遣いにベラを見つめた。
その視線には、少しの懇願が混じっている。
「……その、なんだ。……そろそろ、『名前』で呼んでくれないか?」
「名前?」
「そうだ。……私たちは、その……こ、恋人同士になったのだろう? なのに、貴様はいつまでも『団長』と……」
クラリスはもじもじと指を絡ませた。
あの事件の後、二人は互いの気持ちを確かめ合った。だが、ベラはいまだに頑なに「団長」と呼び続けている。それが少し、寂しいのだ。
ベラは手を止め、小首を傾げて微笑んだ。
「あら。私は貴女の部下で、専属衣装係ですから」
「むぅ……今日は休日だぞ! 命令だ、名前で呼べ!」
「うふふ、どうしましょう」
「なっ!?」
「そんなワガママな上官には、ご褒美はあげられません」
ベラは悪戯っぽく指を立て、クラリスの唇をツンと突いた。
「今日一日、私がこれから仕立てる春服のように、柔らかく、素直で……『いい子』にしていられたら、考えてあげます」
「……ぐぬぬ」
「できますか? 私の可愛い団長様」
そんな風に甘く囁かれて、頷かないわけにはいかなかった。
「……わ、分かった。……善処する」
+++
採寸という名の甘い儀式を終え、ベラはクラリスのお出かけ用のワンピースを広げた。
淡い若草色の生地に、小さな白い花の刺繍があしらわれた、春らしい一着。これもベラが仕立てた。
「さあ、着てみましょうか。……バンザイしてください」
「うむ……」
クラリスは大人しく両手を上げる。ベラはそれを子供に着せるように、頭からすっぽりと被せた。
ふわりと布が舞い、クラリスの体を優しく包み込む。
ベラは背後に回り、並んだ小さな胡桃ボタンを一つずつ留めていく。
「きつくありませんか?」
「……ああ。完璧だ。……ベラの腕の中にいるみたいだ」
クラリスが素直な感想を漏らすと、ベラは嬉しそうに目を細めた。
最後の一つを留め終え、ベラはクラリスの前に戻ると、その左手を取った。
クラリスの華奢な薬指には、銀色の指ぬきが嵌められている。
決戦の朝、ベラが「守り刀」として託したものだ。
本来は裁縫道具だが、クラリスはあれ以来、これを「指輪」のように大切にし、寝る時も外そうとしない。
「……手袋、しますか? 指ぬきをしていると入りませんが」
「いらん」
クラリスは即答し、指ぬきごとギュッと握りしめた。
「これを外すと、指先がスースーする。……心が寒くなる」
「ふふ。……困ったお人」
ベラは愛おしそうに、その銀の指ぬきに口づけを落とした。
冷たい金属の感触。けれど、そこにはクラリスの体温が移っていて、じんわりと温かい。
「団長の指に馴染んで、まるで最初から体の一部だったみたいですね」
「……当然だ。これは、私を守る盾で……貴様の心臓の一部だろう?」
「ええ、その通りです」
ベラは自分の素手の指を、指ぬきの嵌ったクラリスの指に絡めた。
恋人繋ぎ。
「では、手袋の代わりに、私の手で温めておきますね」
「……うむ。……その方が、ずっと温かい」
クラリスは頬を染め、嬉しそうにベラの手を握り返した。
+++
春の陽気に誘われて、二人は王都の街へと繰り出した。
今日の目的は、ベラが次に仕立てる服の生地選びだ。
第一地区の大通りは、休日を楽しむ人々で賑わっていた。
かつて「氷の処刑人」として恐れられ、誰もが道を空けたクラリスだが、今は違う。
隣にベラがいて、柔らかな若草色のワンピースを着て歩く彼女は、ただの年相応の美しい女性にしか見えなかった。
「あっ、おい見ろよ。あそこの二人……」
「綺麗な人たちだねぇ。姉妹かしら?」
すれ違う人々の視線が、好奇と羨望を含んだものに変わっている。
クラリスは少し緊張して肩を強張らせたが、繋いだ手から伝わるベラの体温に、すぐに表情を緩めた。
「……ベラ。あれ」
「はい?」
クラリスの視線が、屋台のクレープ屋に釘付けになっている。
甘い匂い。生クリームとイチゴ。
クラリスの喉がゴクリと鳴る。
だが、彼女はハッとして首を振った。
「い、いや! 何でもない! 私は『いい子』だからな。買い食いなど……」
「ふふ。いい子には、ご褒美が必要ですよね」
ベラは迷わず屋台に向かい、一番豪華なイチゴスペシャルのクレープを一つ買った。
「はい、一緒に食しましょう」
「……い、いいのか?」
「貴女が美味しそうに食べている顔を近くで見るのが、私の幸福ですから」
クラリスは花が咲いたような笑顔になり、二人で両端から大きな一口を頬張った。
口の端にクリームをつけながら「んぅ~!」と悶えるクラリスの姿に、ベラは胸の奥が温かくなるのを感じた。
生地屋では、クラリスは退屈することなく、ベラの後をついて回った。
ベラが真剣な顔で生地の手触りを確認している間、クラリスは邪魔をしないように、でも離れたくないので、ベラのスカートの裾を指先で摘んで待っていた。
その姿は、母親とはぐれるのを恐れる迷子のようでもあり、飼い主に忠実な大型犬のようでもあった。
「……お待たせしました」
「うむ。……終わったか?」
「ええ。素敵なリネンが手に入りました。これで夏用のシャツを作りましょう」
「……私のか?」
「もちろん。貴女以外の服なんて、もう縫いませんよ」
その言葉に、クラリスは満足げに鼻を鳴らし、帰り道はずっとご機嫌で鼻歌を歌っていた。




