第32話 モテるお針子
「ベラさん、今度の休日、皆で街に行くんですが、一緒にどうですか?」
「えっ? 私のような年上が混ざっても……」
「そんな! ベラさんがいいんです!」
バキッ!!
ついに、クラリスの手の中で羽根ペンが真っ二つにへし折れた。
乾いた音が響き、執務室が一瞬静まり返る。
新人たちがビクリとして振り返る。
「……だ、団長?」
「……何でもない。……続けろ」
クラリスは引きつった笑みを浮かべ、新しいペンを取り出した。
だが、その全身からは「殺す」「凍らす」「砕く」という殺気がダダ漏れになっていた。
(……あらあら)
その不穏な空気を、ベラの「針子の眼」が見逃すはずがなかった。
クラリスの肩が怒りでいかり上がり、呼吸が浅くなり、眉間の皺が深くなっている。
あのまま放置すれば、あと五分で執務室は氷河期を迎えるだろう。
「……ごめんなさいね、皆さん。少し休憩させていただけますか?」
ベラは新人たちに優しく告げると、彼らの輪を抜け出した。
そして、お茶のセットを用意し、まっすぐにクラリスの元へ歩み寄った。
「団長。お茶が入りましたよ」
コトリ、と机に置かれたティーカップ。
立ち上る湯気と共に、ベラがそっと身を寄せる。
「……ふん。……貴様は忙しいのだろう? 若者たちに囲まれて、楽しそうじゃないか」
クラリスは書類から目を離さず、拗ねた声で言った。
典型的な嫉妬だ。
ベラはくすりと笑い、誰にも聞こえないような小声で、クラリスの耳元に囁いた。
「……妬いていらっしゃるんですか?」
「なっ……!?」
クラリスが顔を真っ赤にして振り向く。
「ち、違う! 私は団長として、職場の規律を……!」
「彼らはただの可愛い『弟分』ですよ。……私が『最愛の人』として見ているのは、世界中でたった一人だけです」
ベラの手が、机の下でそっとクラリスの手に触れる。
指と指が絡み合う。
「……私の、勇ましくて可愛い団長様だけ」
甘い毒のような囁き。
クラリスは口をパクパクさせ、耳まで茹でダコのように赤くしたまま、完全にフリーズした。
ベラは満足げに微笑むと、「さあ、冷めないうちにどうぞ」と言い残し、再び新人の群れへと戻っていった。
残されたクラリスは、自分の手を呆然と見つめ、それから机に突っ伏して、誰にも見えないようにニヤけた顔を隠した。
遠くでギルバート一等兵が「(団長の扱い、手慣れてきたなぁ……)」と感心していた。
+++
一日の業務が終わり、夜が訪れた。
「氷の鳥籠」の浴室。
湯気で満たされた空間に、水音が響く。
「……んぅ……」
クラリスは裸のまま浴槽の縁に座り、目を閉じていた。
その背後で、薄着のベラが彼女の豊かな銀髪にお湯をかけている。
ベラの指先が、頭皮を優しくマッサージするように動くたび、クラリスの口から甘い吐息が漏れた。
「……気持ちいいですか、団長?」
「……ああ。……極楽だ」
昼間の殺気立った空気はどこへやら。今のクラリスは、完全に骨抜きにされていた。
シャンプーの泡が立ち、柑橘系の爽やかな香りが広がる。
ベラは丁寧に髪を梳きながら、ぽつりと言った。
「……今日は、無理をなさいましたね」
「……何のことだ」
「嫉妬を我慢して、偉い団長様であろうとしていました。……私の目には、貴女の背中が『寂しい』と泣いているように見えましたよ」
図星を突かれ、クラリスは沈黙した。
お湯の流れる音だけが続く。
やがて、クラリスは小さく口を開いた。
「……器が小さいと思われるのが、嫌だったんだ」
「器?」
「貴様は皆に慕われている。それは良いことだ。……だが、それを笑顔で見守れない自分が、情けなくて……」
クラリスは膝を抱え、小さくなった。
「本当は……全員氷漬けにして、貴様を部屋に閉じ込めて、私だけを見させたかった。……私は、醜いな」
自己嫌悪に沈む背中。
ベラはシャワーを止め、泡を流し終えたクラリスの髪をタオルで包んだ。
そして、濡れたままの背中を、後ろからそっと抱きしめた。
「……ベラ?」
「醜くなんてありませんよ。……そんな風に私を独占したいと思ってくださるなんて、お針子冥利に尽きます」
薄着のベラの胸の感触が、背中に伝わる。
「私も同じです。貴女が他の誰かに優しく笑いかけると、心がチクリと痛みます。……独り占めしたいと、いつも思っていますよ」
「……本当か?」
「ええ。ですが、お仕事ですから我慢しています。……その分、こうして二人きりの時に、たくさん取り返せばいいんです」
ベラはクラリスの濡れた首筋に、チュッ、と音を立ててキスをした。
「ひゃぅっ!?」
「昼間の分、まずは一つ」
さらに、耳の裏、肩、鎖骨へと、甘い口づけを落としていく。
「これも、あれも……全部、我慢したご褒美です」
「ベ、ベラ……まっ、待て……! そんなところ……!」
クラリスの体が熱く火照り、力が抜けてベラの方へ倒れ込む。
ベラはクラリスを支え、その耳元で愛を囁くように言った。
「……好きだ。ベラ、大好きだ」
「はい。私もお慕いしております」
湯気の中で、二人は視線を交わす。
浴室の窓の外、月が雲間に隠れる。
「氷の鳥籠」はもう冷たくない。
そこは、不器用な騎士と優しいお針子が紡ぐ、温かな愛の巣となっていた。
これからは、毎日がこんな甘い戦いの日々になるのだろう。
だが、それも悪くない。
ベラは心の中でそう呟き、愛しい恋人をさらに深く抱きしめた。




