第31話 目覚めのまじない
王都グラン・アヴェルラの朝は、かつてないほど穏やかな光に満ちていた。
特に、第一地区に佇むクラリス・フォン・アルゼインの私邸――通称「氷の鳥籠」においては、その変化は劇的だった。
かつては生活感の欠片もなく、冷え切っていた寝室。しかし今は、窓辺に飾られた季節の花々が揺れ、ベラが選んだ淡いクリーム色のカーテン越しに、柔らかな朝日が差し込んでいる。
「……んぅ」
キングサイズのベッドの中央、ふかふかの羽毛布団がモゾモゾと動いた。
そこからひょっこりと顔を出したのは、銀髪の騎士団長、クラリスだった。だが、その姿に「氷の処刑人」の威厳はない。
眠気でとろんとした瞳。乱れた髪。そして何より、枕元に置かれた「ベラの匂いがするクッション」を抱きしめている姿は、冬眠から覚めたばかりの小動物そのものだ。
「おはようございます、団長」
頭上から降ってくる、綿毛のような優しい声。
クラリスが視線を上げると、そこにはすでに着替えを済ませ、エプロン姿のベラが微笑んでいた。
手には湯気の立つマグカップ。焼きたてのパンと、甘いミルクティーの香りが鼻孔をくすぐる。
「……ベラ」
「朝ですよ。今日は新人の訓練視察がある日でしょう? 起きないと遅刻しますよ」
「……あと五分」
「だめです」
「……三分」
「いけません。さあ、カーテンを開けますよ」
ベラがカーテンを引くと、眩しい光が部屋いっぱいに溢れた。クラリスは「うぐっ」と呻き、布団を頭から被って抵抗する。
ベラは苦笑しながらベッドに近づき、その布団を容赦なく剥ぎ取った。
「ほーら、起きてください。私の可愛いお寝坊さん」
ベラが覗き込むと、クラリスは観念したように腕を伸ばし、ベラの首に巻きついた。そのままグイッと引き寄せ、ベラの胸に顔を埋める。
「……充電」
「はいはい、充電ですね」
「……ベラの匂いだ。……よく眠れた」
クラリスはベラの温もりを貪るように深呼吸し、それから上目遣いでベラを見つめた。
その瞳は潤み、期待に揺れている。
「……おはようのキス、してくれないと起きない」
「困った団長さんですね」
ベラは慈愛に満ちた瞳を細め、そっと顔を近づけた。
クラリスが期待に胸を躍らせ、目を閉じて唇を尖らせる。
吐息がかかる距離。
チュッ。
柔らかい感触が落ちたのは――クラリスの、おでこだった。
「はい、おはようございます」
ベラが体を離すと、クラリスはパチリと目を開け、不満げに頬を膨らませた。
「……場所が違う」
「合っていますよ。目覚めのおまじないです」
「違う。……口じゃないとやだ」
むくれるクラリス。その幼い仕草に、ベラの胸がきゅん、と鳴る。
けれど、ベラはまだ、その一線を越えるつもりはなかった。この関係が甘く熟して、本当に二人の魂が溶け合う「その時」まで、一番大切な儀式は取っておきたいのだ。
「だめですよ、団長」
「なぜだ! 私たちは……その、こ、恋人……なのだろう?」
「ええ。ですが、朝からそんな甘いことをしていたら、貴女が骨抜きになって仕事に行けなくなってしまいますから」
ベラは悪戯っぽく指を立て、クラリスの唇をツンと突いた。
「続きは、また今度。……貴女が、立派にお仕事を終えられたら、考えてあげます」
「……ケチ」
「ふふ。さあ、着替えましょう。今日の髪型はどうしますか?」
ベラの手がクラリスの銀髪を梳く。
その心地よさに、クラリスは文句を言いながらも、すぐに喉を鳴らす猫のように目を細めた。
こうして、二人の甘い一日は幕を開ける。
+++
王立騎士団本部、地下・第零班執務室。
そこは今、かつてない活気に包まれていた。
ヴァルデング判事の巨悪を暴き、王都を救った「伝説の第零班」。その噂を聞きつけた若き騎士たちが、次々と配属を志願してきたのだ。
そして、彼らの目当ては、強き団長だけではなかった。
「あの、ベラさん! 僕の制服、袖が少しきついんですが……」
「ベラさん、相談があるんです! 昨日の訓練で腰を痛めてしまって……」
「ベラさん! これ、実家から送られてきた果物です! よかったら!」
執務室の一角、ベラの作業机の周りには、二重三重の人だかりができていた。
十代後半から二十代前半の、若く逞しい新人騎士たち。彼らは皆、ベラの「魔法の仕立て」と、その聖母のような包容力に魅了されていた。
「はいはい、順番ですよ。……あら、肩が張っていますね。少し袖付けを直しましょうか」
「ありがとうございます! ベラさんは女神だ!」
「まあ、お上手ね。……次の方、採寸しますから上着を脱いでください」
ベラは嫌な顔ひとつせず、テキパキと仕事をこなしていく。その笑顔は春の日差しのように温かく、新兵たちの緊張を解きほぐしていく。
だが。
その光景を、部屋の最奥――「団長席」から見つめる視線があった。
絶対零度の冷気を放つ、クラリス・フォン・アルゼインである。
(……近い)
クラリスの手の中で、羽根ペンがミシミシと悲鳴を上げている。
ベラの周りに群がる男たち。彼らの距離が、あまりにも近い。
ベラが採寸のためにメジャーを回すたび、新人の顔が赤くなる。ベラが屈託なく笑いかけるたび、男たちがデレデレと鼻の下を伸ばす。
(あいつ……ベラの手を触った)
(あの男、わざと服を破いたんじゃないか? 構ってほしくて……)
嫉妬の炎が、クラリスの胸中で黒く渦巻く。
今すぐに駆け寄り、「全員下がれ! そのお針子は私のものだ!」と叫んで、氷漬けにしてやりたい衝動に駆られる。
だが、クラリスはぐっと奥歯を噛みしめ、その場に留まった。
(だめだ……。そんなことをすれば、『器の小さい団長』だと思われる)
自分は団長だ。部下の面倒を見るベラの姿は、組織にとって有益なことだ。それを個人的な感情で邪魔をしてはならない。
ベラだって、仕事をしているだけだ。
あんな若造どもに、恋愛感情など抱くはずがない。
頭では分かっている。
分かっているが――。




