第28話 雨を縫う
『……はい、団長!』
ベラは監査室の床から立ち上がった。
痛みなどどうでもいい。
彼女の集中力は極限に達し、世界の色が変わった。
雨音はリズムになり、風の動きは布のドレープのように見える。
『見えます。……雨が、すべてを教えてくれています』
ベラの「針子の眼」が、戦場のすべてを解析する。
敵の数は残り十二体。
ヴァルデングの杖に仕込まれた魔術の核。
それらが動く軌道、雨粒が描く未来線。
『団長。……見えますか?』
クラリスの脳内に、赤い光のラインが浮かび上がる。
それは無数に飛び交う敵の攻撃の隙間を縫うように走る、唯一無二の「安全地帯」であり、「勝利への道筋」だった。
『そこです! 針の穴を通すように……駆け抜けて!』
「……了解。貴様の導きなら、目をつぶっていても通れる!」
クラリスが走る。
泥を蹴り、雨を切り裂く。
魔獣たちが一斉に襲いかかるが、クラリスの動きは舞踏のように滑らかだった。
赤いラインをなぞるように、最小限の動きで刃を躱し、すれ違いざまに急所を突く。
一体、また一体。
氷の彫像が生まれては砕け散る。
そして、最後に残ったのはヴァルデングただ一人。
「ば、馬鹿な……! 私のかわいいペット達が、なぜ……!」
ヴァルデングが杖を構え、黒い魔力を放とうとした。
『今です! 全方位、縫い付けろ!!』
「氷華流突……全開放!!」
クラリスが剣を天に掲げる。
瞬間、豪雨の雨粒すべてが凍結した。
何億もの氷の針が、空間そのものを縫い止めるように降り注ぐ。
カキンッ!
世界が静止した。
ヴァルデングは杖を振り上げた姿勢のまま、首から下を分厚い氷塊に閉じ込められていた。
完全なる敗北。
雨は雪へと変わり、静かに降り積もっていく。
+++
静寂の中、クラリスはゆっくりとヴァルデングに歩み寄った。
切っ先を、動けない男の喉元に突きつける。
「……殺せ」
ヴァルデングは、氷の中で震えながらも、狂った目をぎらつかせていた。
「さあ、私を殺せ、クラリス! 親殺しの業を背負い、真の『処刑人』として完成するんだ! それが私の望みだ!」
最期まで、彼はクラリスを自分の作品として汚そうとしていた。
クラリスの手が震える。
こいつを殺せば、すべてが終わる。憎しみも、過去も。
(……だめです、団長)
脳裏に、ベラの静かな声が響いた。
(汚れないで。……貴女の手は、私を抱きしめるための手です)
クラリスは、ふぅ、と白いため息を吐いた。
そして、剣を引いた。
チャキ、と鞘に収める音が響く。
「……な、なぜだ! なぜ殺さない!」
「……断る」
クラリスは冷ややかに、しかしどこか誇らしげに言い放った。
「人殺しの手を測らせるのは、私の専属針子に失礼だからな」
それが、彼女が出した答えだった。
復讐よりも、ベラとの日常を選んだのだ。
「貴様は法で裁く。……一生、冷たい牢獄で罪を数えろ」
その時、屋敷の外から蹄の音が響いてきた。
ベラが手配した監査官と騎士団の部隊が到着したのだ。ヴァルデングは絶望の叫び声を上げながら、騎士たちに引きずられていった。
+++
騒がしさが遠のき、前庭に静寂が戻る。
雲間から月が顔を出し、濡れた地面を照らしていた。
「……終わった……」
クラリスは、泥だらけのその場に座り込んだ。
緊張の糸が切れ、指一本動かせない。
リンクはまだ繋がっているが、感覚が遠い。魔力切れだ。
「……ベラ……」
会いたい。
声が聞きたい。
その時だった。
「団長!!」
門の方から、聞き慣れた声がした。
馬から転がり落ちるようにして駆け寄ってくる人影。
泥だらけで、髪もボサボサの、愛しいお針子。
「ベラ……!」
ベラは座り込むクラリスの元へスライディングするように滑り込み、その体を強く抱きしめた。
「団長! ご無事ですか!? 怪我は! 痛いところは!」
「ぐぇ……く、苦しい……」
ベラが触れた瞬間。
カッ、と二人の瞳から青い光が消えた。
『双眸連結』の強制解除。
脳内で響いていた声が消え、代わりに本物の体温と、鼓動と、日向の匂いが全身を包み込む。
「……ああ。……本物だ」
クラリスは、ベラの背中に腕を回し、顔を埋めた。
「痛かったぞ、ベラ。……貴様が転ぶから」
「すみません……! 本当にすみません……!」
「嘘だ。……来てくれて、ありがとう」
二人は泥の中で、互いの無事を確かめ合うように抱き合った。
ベラは泣きながら、ポケットから何かを取り出した。
それは、クラリスが預けていた「飾緒の金具」だった。
「……団長。大切なこれ、お返しします」
「……いらん」
クラリスは首を横に振った。
そして、自分の左手を掲げた。薬指には、「銀の指ぬき」が光っている。
「これはまだ、私が持っておく。……その代わり、その金具も貴様が持っていろ」
「え……? でも、これはアルゼイン家の……」
「担保だ」
クラリスは顔を赤らめ、そっぽを向きながら言った。
「一生続く、契約の証だ。……文句あるか?」
それは、実質的なプロポーズだった。
ベラは一瞬きょとんとして、それから涙でぐしゃぐしゃになった顔で、満開の花のように微笑んだ。
「……ありません。謹んで、お預かりします」
ベラは金具を再び胸にしまい、クラリスの手を取った。
「さあ、帰りましょう。私たちの家へ」
「うむ。……腹が減った」
クラリスはベラに支えられて立ち上がった。
「とびきりのシチューが食べたい。……肉たっぷりでな」
「はい。ニンジンも入れていいですか?」
「……小さく刻むなら、許可する」
雨上がりの月夜。
泥だらけの騎士とお針子は、互いに支え合いながら歩き出した。
その足取りは重かったが、二人の影は一つに重なり、どこまでも伸びていた。




