第27話 豪雨の決戦
天が裂けたかのような豪雨になった。
王都の高級住宅街、第一地区。ヴァルデング邸の壮麗な正門は、先刻の一撃で氷塊と共に吹き飛び、無残な残骸を晒している。
叩きつける雨音が、すべての音を塗り潰していく。
屋敷の前庭。泥濘んだ地面に、クラリス・フォン・アルゼインは独り立っていた。
ずぶ濡れの銀髪が頬に張り付く。だが、その碧眼は瞼によって固く閉ざされていた。
「……愚かな娘だ」
テラスの屋根の下、優雅に杖をついたヴァルデングが嘲笑う。
彼の周囲には、雨粒が弾ける「空白」が揺らめいている。透明魔獣の群れだ。その数は三十近い。
「視界の悪い雨の中で目を閉じるとは。恐怖で現実が見えなくなったか?」
「……違うな」
クラリスは細剣を構え、雨空を仰いだ。
彼女の脳裏には、今この瞬間、遠く離れた王宮の「治安維持局監査室」にいる、愛しいお針子の姿もあった。
「始めるぞ。……ベラ、私を導け」
『……見えています、団長』
二人は契約魔法『双眸連結』によって繋がっている。
脳内に響くベラの声。
ベラの眼を通すと、雨粒の一つ一つが止まって見えた。
そして、何もないはずの空間で雨が不自然に弾け、歪んでいる場所――そこに「敵」がいる。
『右、3時の方向。足元に歪みあり!』
ベラの思考が伝わった瞬間、クラリスの身体は反応していた。
右斜め前へ踏み込み、鋭い刺突を放つ。
ギャァッ!
何もない空間から鮮血が噴き出し、絶命した魔獣が泥の中に転がり落ちた。
『次は正面、二体同時! 低い姿勢で!』
「了解!」
クラリスは泥の上を滑るように身を屈め、回転しながら二閃。
正確無比。
遠隔地にいるベラが「観測」し、現地のクラリスが「実行」する。二人の魂が完全に同調した、驚異の連携だった。
+++
一方、王宮の治安維持局監査室。
蹴破られた扉の前で、監査官たちが呆然と立ち尽くしていた。
彼らの視線の先には、濡れた服のまま書類の山を広げ、何もない虚空を睨みつけているベラの姿があった。
彼女の瞳は青白く発光し、額には脂汗が滲んでいる。
エミリーが遺した証拠書類と、ヴァルデングの犯罪を示す魔獣のデータを提出し終えたベラは、今まさに全身全霊をかけてクラリスの「目」となっていた。
(雨の跳ね返り、風の向き、筋肉の収縮……全部、読み取るのよ!)
ベラの脳にかかる負荷は凄まじかった。
監査室の安全な場所にいながら、彼女の精神は豪雨の戦場にある。
魔獣の殺気、雨の冷たさ、そしてクラリスの疲労。すべてがリンクを通じて逆流してくる。
『左後方、跳躍!』
ベラが叫ぶ(念じる)。
だが、長引くリンクの負荷が、ベラの三半規管を狂わせた。
「……ッ!」
ガタンッ!
監査室の床で、ベラは何もない場所で足をもつれさせ、派手に転倒した。
膝と肘を強打する鈍い痛み。
「うぅっ……!」
その痛みは、即座にリンクを通じて伝播した。
+++
ヴァルデング邸、前庭。
「ぐっ……!?」
華麗に剣を振るっていたクラリスが、突如として体勢を崩した。
何もない平坦な地面で、まるで誰かに足を掛けられたように膝をつく。
襲いかかる幻の激痛。
肘と膝が砕けるような衝撃に、一瞬だけ意識が飛ぶ。
(ベラ!? 転んだのか!?)
その隙を、魔獣は見逃さなかった。
ザシュッ!
「がぁっ……!」
回避が遅れたクラリスの左肩を、透明な刃が深々と切り裂いた。
鮮血が雨に混じって流れる。
「……ははは! 滑稽だな」
高笑いが響く。
ヴァルデングは、杖を突きながら余裕の笑みを浮かべていた。
「どうした、クラリス。今の動き……お前は何も踏んでいなかった。それなのに、まるで『誰かが転んだ痛み』に共鳴したように崩れ落ちた」
ヴァルデングの冷徹な観察眼が光る。
「なるほど。視覚だけでなく、痛覚まで共有しているのか。あのお針子と」
ヴァルデングは呆れたように首を振った。
「愚かすぎる。戦場において、他人の痛みなどノイズでしかない。恐怖と苦痛を二倍にしてどうする? それがお前の『弱点』だと言っているんだ」
「……黙れ」
クラリスは泥まみれになりながら、剣を杖にして立ち上がった。
肩の傷が熱い。膝が痛い。
けれど、その痛みのおかげで、彼女は笑っていた。
「……弱点? 違うな」
クラリスは雨に濡れた顔を上げ、ヴァルデングを睨みつけた。
「痛いから、分かるんだ。ベラが今、私のために戦っていると。……この熱があるから、私は『人形』ではなく『人間』として、ここに立てている!」
脳内に、ベラの謝罪の声が響く。
『ごめんなさい、団長! 私のせいで……痛いですよね、ごめんなさい!』
泣きそうなその声に、クラリスは心の中で語りかけた。
(貴様の方こそ、今私が受けた攻撃で。謝るな、ベラ。……貴様の痛みなら、いくらでも引き受ける。これは弱点ではない。私たちが生きている証であり、糧だ!)
「……行くぞ、ベラ! この雨、すべて縫い止めてやろう!」
クラリスの咆哮に応えるように、遠く離れたベラの瞳が、決意の光で燃え上がった。




