第26話 銀の指ぬきと金の金具
「……っ!?」
その瞬間、クラリスは悲鳴を上げそうになった。
視界がおかしい。
自分の目で見ている映像の上に、もう一つの映像が重なって見える。それはベラの視界だ。
だが、そこに映っている「自分」の姿に、クラリスは絶句した。
キラキラと輝いている。
薄暗い小屋の中なのに、まるで後光が差しているかのように、目の前のクラリスが美化されていた。
さらに、映像と共に流れ込んでくる感情の奔流。
――可愛い。
――守りたい。
――愛しい、私の団長。
――大好き。
甘い。砂糖を煮詰めたシロップのような感情が、脳内に直接注ぎ込まれる。
「な、ななな、なんだこれは!? 貴様、普段私をこんな目で見ているのか!?」
クラリスは顔を沸騰させて叫んだ。
「フィルターがかかりすぎだ! こんなにキラキラしているわけがないだろう!」
「し、仕方ないでしょう! 私の目にはそう映っているんですから! 文句を言わないでください!」
ベラも顔を赤らめて抗議する。
視覚情報は嘘をつかない。ベラにとってクラリスは、世界で一番美しく、尊い存在なのだ。それが客観的な映像として証明されてしまった。
「……と、とにかく、感覚の共有テストをするぞ」
クラリスは動揺を隠すように咳払いをした。
視覚は繋がった。次は触覚だ。
「ベラ、自分の手をつねってみろ」
「はい。……では」
ベラは少し悪戯っぽい笑みを浮かべると、自分の手ではなく、自分の下唇に、人差し指をそっと這わせた。
ゆっくりと、輪郭をなぞるように。
「んっ……!?」
数メートル離れた場所に立っていたクラリスが、ビクリと体を震わせ、自分の口元を押さえた。
「な、なにを……!」
「どうですか、団長? 感じますか?」
ベラはさらに、自分の唇を指の腹でくにくにと押し、軽く摘んだ。
その感触が、濡れたような生々しさを持って、クラリスの唇に伝播する。
まるで、今まさにベラに触れられているかのような錯覚。
「や、やめろ! 変な感じがする! くすぐったい!」
「ふふ。……感度は良好のようですね」
ベラが指を離すと、クラリスは涙目で肩で息をしていた。
顔が熱い。心臓がうるさい。
これは危険だ。ただ痛みを共有するだけではない。
相手が感じる快感や熱までもが、ダイレクトに逆流してくる。
「……覚えておけ。戦闘中に余計なことは考えるなよ。貴様がドキドキすると、私の集中力が切れる」
「善処します。……でも、貴女が無茶をして傷ついたら、私も痛くて泣いてしまいますから。どうかご無事で」
その言葉に込められた重みを感じ、クラリスは赤くなった顔で、しかし力強く頷いた。
+++
いよいよ出発の時。
二人はここで別行動をとる。
ベラは、妹エミリーが命がけで残した証拠と、新たに手に入れた魔獣の情報を持ち、ヴァルデングの政敵である「治安維持局監査室」へ走る。法と政治の力で、判事の権力を剥奪するためだ。
そしてクラリスは、単身ヴァルデング邸へ乗り込み、魔獣を引きつける囮となる。
「……本当にお一人で大丈夫ですか?」
「問題ない。今の私には、貴様という『眼』がついている」
小屋の外に出ると、雨は止んでいたが、風が強く吹いていた。
ベラは着ていた服の胸の下にあるポケットに手を入れた。
中から取り出したのは、使い込まれた銀色の「指ぬき」だった。
「団長。手を出してください」
「ん?」
クラリスが左手を差し出すと、ベラはその薬指に、指ぬきをそっとはめた。
「……これは?」
「私の指を、数えきれないほどの針から守ってきた盾です。……きっと、貴女を守ってくれます」
その指ぬきは、クラリスの華奢な薬指にピタリと収まった。
クラリスはさらにそれを落とさないよう、ギュッと指を曲げて握りしめた。
「……守ってくれるのだな」
「ええ。必ずや」
「……よし、生きて返すと誓おう」
それは、絶対に死なないという誓いであった。
ベラはふわりと微笑んだ。
「はい。団長の体温で温めておいてください」
今度はクラリスの番だった。
彼女は自分の軍服の肩に飾られた、金色の飾緒(組紐)を掴むと、ためらいなく引きちぎった。
ジャラッ、と金具が鳴る。
「……これは、アルゼイン家の誇りであり、団長の証だ」
クラリスはその金色の金具を、ベラの手のひらに押し付けた。
「貴様に預ける。……これは重いぞ。私の名誉そのものだからな」
「……確かに、お預かりしました」
ベラは金具を胸のポケットにしまい、心臓の上でそれを押さえた。
互いの最も大切なものを担保にした、命の契約。
もう言葉はいらなかった。
「行ってきます、私の騎士様」
「行ってくる。……私のベラ」
二人は背を向け、同時に走り出した。
タッタッタッ……!
石畳を蹴る音。風を切る音。
二人は離れていく。物理的な距離はどんどん開いていく。
だが、リンクされた脳内には、不思議な光景が広がっていた。
カッ、カッ、カッ。
クラリスの右目には、自分が走る薄暗い路地裏の風景が見えている。
しかし左目には――ベラが見ている、朝日に照らされた王都の大通りの風景が、半透明に重なって映し出されていた。
『……聞こえるか、ベラ』
思考が繋がる。
『はい、聞こえます。……貴女の息遣いも、心臓の音も』
視界の端に、ベラがすれ違う人々の驚く顔が見える。
ベラの耳に届く、市場の喧騒が聞こえる。
そして何より、ベラの胸の奥にある「絶対に勝つ」という熱い意志が、血液のように流れ込んでくる。
(……一人じゃない)
クラリスは強く地面を蹴った。
かつて孤独だった「氷の処刑人」はもういない。
今の彼女は、愛する半身と共に戦う、一人の人間だった。
二つの視界が、それぞれの戦場を捉える。
決戦の火蓋は、今切って落とされた。




