第25話 双眸連結
嵐は去っていた。
水路の監視小屋の小さな窓から、朝の光が差し込んでいる。外の世界は昨夜の豪雨で洗われ、皮肉なほど澄み渡っていた。
コンクリート打ちっぱなしの寒々しい部屋で、クラリス・フォン・アルゼインは湯気の立つマグカップを両手で包み込んでいた。
中身は、小屋の備蓄品棚にあった乾燥粥を、ベラがお湯で戻しただけの代物だ。具材などない、ただの糊のような白い塊。
以前のクラリスなら、「家畜の餌か」と見向きもしなかっただろう。
だが今は、そのカップから伝わる熱が、何よりも愛おしかった。
「……味気ないな」
一口啜り、クラリスは掠れた声で言った。
「紙を食べているようだ。塩気もない」
「すみません、団長。ここには調味料がなくて」
「だが……温かい」
クラリスは粥を飲み込んだ。
食道を通り、胃に落ちる熱の塊。それが自分の体を内側から温め、生きる力を与えてくれるのを感じる。
昨夜、ベラがくれた抱擁と同じ温度だ。
自分は人形ではない。不味いものを不味いと感じ、人の温もりで涙を流す、生身の人間だ。
「……ベラ」
「はい」
「私は、許さない」
クラリスはカップを置き、立ち上がった。
その身に纏っているのは、昨夜ベラが着せてくれた、ボタンの弾け飛んだカーディガンだ。
だが、その背筋はかつてないほど真っ直ぐに伸びていた。
「ヴァルデングは私から両親を奪い、姉を奪い、私の人生を『処刑人』という劇の道具にした。……そして何より、私の大切な部下を傷つけた」
クラリスの碧眼に、静かだが決して消えることのない青い炎が宿る。
「あいつを裁く。騎士団長としてではない。クラリス・フォン・アルゼインという一人の人間として、私の尊厳と、貴様の笑顔を取り戻すために」
その言葉を聞いたベラは、静かにクラリスの前に進み出た。
そして、ゆっくりと片膝をついた。
それは臣下が王にする礼ではない。騎士が、生涯を捧げるただ一人の淑女に捧げる、求愛にも似た敬礼だった。
「……私は騎士ではありません。ただの復讐者であり、しがないお針子です」
ベラはクラリスの手を取り、傷だらけの指先に唇を寄せた。
「ですが、この針と糸は、貴女を守るためにあります。……団長閣下ではなく、貴女という一人の女性に、私の全てを捧げます」
二人の視線が絡み合う。
そこにはもう、迷いも恐怖もなかった。
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「さて、どうやってあの男を追い詰めるかですが……」
作戦会議が始まった。
最大の問題は、ヴァルデングが操る透明魔獣だ。
姿が見えない上に、数は数十体。ベラの「針子の眼」でも、全方位を同時に警戒するのは限界がある。かといって、市街地でクラリスがむやみに広範囲魔法剣術を使えば、市民に被害が出る。
「……手はある」
クラリスは記憶の底を探り、王家の禁書庫で読んだ古い魔法を思い出した。
「『双眸連結』。……術者と契約者の五感を共有する、古代の契約魔法だ。王家の禁書庫に眠っていた古い文献で見つけた。……人付き合いのいない私の、唯一の趣味が読書だったのが役に立ったな」
「五感を、共有?」
「そうだ。貴様の『針子の眼』で捉えた敵の情報を、私の脳に直接流し込む。そうすれば、私にも透明な敵が見えるようになる」
クラリスは真剣な眼差しでベラを見た。
「だが、リスクがある。視覚だけでなく、痛覚も共有してしまう諸刃の剣だ。……貴様が傷つけば私も痛い。私が斬られれば、貴様も苦しむ」
「望むところです」
ベラは即答した。
「貴女の痛みを私も背負えるなら、これ以上の喜びはありません」
「……馬鹿者。……よし、始めるぞ」
薄暗い小屋の中、二人は向かい合った。
額と額を合わせる。互いのまつ毛が触れ合うほどの至近距離。
ベラの瞳に自分の顔が映っている。
クラリスは震える唇を開き、吐息が混ざり合う距離で、古代語の詩を紡ぎ始めた。
「……閉ざされた瞼の裏に、汝の灯火を。凍てつく虚無に、命の温もりを」
言葉に魔力が乗り、空気がビリビリと震える。
ベラの視界がぐらりと揺れ、脳髄に熱が走るような感覚に襲われた。
「――我が視界は汝の庭。全てを委ねん……『双眸連結』」
脳の奥に、熱い杭を打ち込まれたような衝撃。
カッ!
二人の瞳が、同時に青白く発光した。




