第24話 焚き火と代わりのボタン
地下水路の奥にある、古びた監視小屋。
コンクリート打ちっぱなしの狭い空間に、二人は転がり込んだ。
外では激しい雨音が続いているが、追っ手の気配はない。どうにか撒いたようだ。
「……はぁ、はぁ……」
ベラは扉に鍵をかけ、その場に座り込んだ。
手の甲の傷がズキズキと痛む。全身ずぶ濡れで、寒さが骨まで染みてくる。
だが、それ以上に深刻なのは――。
部屋の隅。
クラリスは体育座りで膝を抱え、虚空を見つめていた。
濡れた銀髪が頬に張り付いているが、払おうともしない。
その瞳は、ガラス玉のように生気がなかった。
「……私は、人形だった」
ポツリと、クラリスが呟いた。
「パパも、ママも、お姉様も……私が殺したんだ。私が『剣』になるために、みんな死んだんだ」
「違います、団長! それはあの男が勝手に……」
「いいや、同じだ! 私はあいつに育てられた。あいつの与えた食事で大きくなり、あいつの教えで剣を振るった。……私の体は、あいつの悪意でできている」
クラリスは自分の体を抱きしめ、爪を立てた。
「汚い。……気持ち悪い。……私には心なんてない。ただの人殺しの道具だ」
「……」
「ベラ。……私を置いていけ。私と一緒にいたら、貴様まで汚れる」
拒絶。
そして、自己否定。
あまりにも深い絶望の淵に、クラリスは立っていた。
ベラは何も言わず、立ち上がった。
部屋を見渡す。暖を取らなければ、二人とも凍えて死んでしまう。
目についたのは、壁際に放置された古びた木製の棚だった。
ベラは近づき、棚板に足をかけ、全体重をかけて踏み抜いた。
バキッ!
さらに手で板を引き剥がし、薪のサイズへへし折っていく。
普段の彼女からは想像もつかない乱暴な作業だが、その背中には鬼気迫るものがあった。
コンクリートの床に木片を積み上げ、持っていた発火石で火を点ける。
小さな炎が生まれ、やがてパチパチと音を立てて燃え上がった。
ゆらめく炎が、二人の影を壁に映し出す。
ベラは炎の前に行き、濡れた上着を脱いだ。
そして、まだ震えているクラリスの背後に回り込んだ。
「……何をしている。離れろ」
「離しません」
ベラはクラリスの背後から、ぎゅっと抱きしめた。
バックハグ。
かつて執務室で採寸をした時と同じ体勢。
だが、あの時のようなくすぐったい空気はない。
ベラの腕には、絶対に逃がさないという強い力が込められていた。
「……あったかい」
ベラの体温が、濡れた服越しに伝わってくる。
クラリスの強張った体が、ビクリと反応した。
「……やめろ。優しくするな。私は人形だ。……温もりなんて、感じる資格はない」
「人形が、あんなに美味しそうに私のスープを飲みますか?」
「っ……」
「人形が、私の怪我を見て泣いてくれますか? 人形が、私のために必死で走ってくれますか?」
ベラはクラリスの耳元で、呪いを解くように囁き続けた。
「貴女は、私の縫った刺繍を『美しい』と喜んでくれた。……私の洋裁に意味をくれた、この世でたった一人の人間です」
「……嘘だ。私は……空っぽだ」
クラリスは首を振る。
その拍子に、彼女の耳が、背中のベラの胸に押し当てられた。
ドクン、ドクン、ドクン……。
直接響いてくる、力強い鼓動。
「……うるさい」
クラリスが掠れた声で言った。
「……貴様の心臓、うるさいくらい鳴ってる」
「……」
「ドクドクって……耳が痛いくらいだ」
「……ええ」
ベラはクラリスの頭に頬を寄せ、静かに言った。
「それは、貴女が生きているからですよ」
「……え?」
「貴女が生きているから、私の心臓が『生きたい』と叫んでいるんです。……貴女を守りたいと、こんなに騒いでいるんです」
心臓の音。
それは、言葉よりも雄弁な、命の証明だった。
ベラの鼓動と共鳴するように、クラリス自身の心臓もまた、ドクンと大きく跳ねた。
自分は生きている。
冷たい雨に打たれて震え、炎の熱さに安らぎ、そしてベラの体温に泣きたくなるほど焦がれている。
それが「人形」であるはずがなかった。
「……う、ぅ……」
クラリスの瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
堰を切ったように、感情が決壊する。
「ベラ……ベラぁ……ッ!」
クラリスはベラの腕の中で強引に振り向き、その胸にしがみついた。
子供のように声を上げ、わんわんと泣きじゃくる。
汚いとか、道具だとか、そんな理屈はどうでもよかった。
ただ、怖い。寂しい。
そして、この温もりが愛おしい。
「よしよし。……泣いていいんですよ、団長」
ベラはクラリスを抱き締め直し、その背中を優しく撫で続けた。
炎の爆ぜる音と、クラリスの泣き声だけが、狭い小屋に響いていた。
しばらくして、泣き疲れたクラリスは、しゃくり上げながら顔を上げた。
その目は赤く腫れていたが、あの虚ろな色は消えていた。
寒さで震えるクラリスを見て、ベラは困ったように微笑んだ。
「……服、乾かしませんといけませんね」
小屋には、代わりの服などない。
ベラは少し考えて、自分が着ていたカーディガンを脱いだ。
それは逃走中にあちこち引っ掛け、ボタンがすべて弾け飛んでしまっていたが、まだ乾いている部分が残っていた。
「これを着てください」
「……でも、ベラが寒い」
「私は肉付きがいいから、平気です」
ベラはクラリスにカーディガンを羽織らせた。
だが、ボタンがないため、前がはだけてしまう。
クラリスが震える手で前を合わせようとするが、うまくいかない。
「……ボタンがない」
「そうですね」
ベラはクラリスの正面に座り直すと、そっと手を伸ばした。
カーディガンの前を合わせ、その上から自分の両腕を回して、クラリスを抱き込んだ。
「……今夜は、私がボタン代わりです」
ベラの腕が、ボタンのようにしっかりと、しかし優しくクラリスの前を閉じる。
その顔は、すぐ目の前にあった。
お日様の匂いと、薪の燃える匂いが混じり合う。
「……あったかくて、丈夫なボタンだ」
クラリスは少し鼻にかかった声で言い、ベラの腕の中に顔を埋めた。
「……ええ。一生、解けないくらい頑丈ですよ」
外の雨はまだ止まない。
世界は残酷で、明日の行方も分からない。
けれど、この狭い小屋の中で燃える小さな炎と、互いの鼓動だけが、二人にとっての確かな真実だった。
冷え切った心が溶け合い、二つの魂が寄り添う夜が、静かに更けていった。




