第23話 残酷な真実と砕かれた氷の心
廃棄4区画の第3倉庫は、かつて食肉加工場だった場所特有の、鼻を刺すような鉄錆と古い血の臭いに満ちていた。
広大な空間には窓がなく、天井の換気口から差し込む僅かな月明かりだけが光源だ。
カチ、カチ……。
カチ、カチ、カチ……。
無機質な顎の音が、四方八方から反響する。
ベラ・ガーランドは、倉庫の中央で荒い息を吐いていた。
「……ッ!」
ヒュッ、と風を切る音。
ベラは反射的に左手を庇った。
ザシュッ。
二の腕を狙った見えない刃が、ベラの手の甲を浅く切り裂いた。鮮血が飛び散り、コンクリートの床に赤い花を描かせる。
(……速い。それに、数が多いわ)
姿の見えない透明魔獣。
ベラの「針子の眼」をもってしても、完全に気配を消した複数の敵を同時に捉え続けるのは限界だった。
武器はない。あるのは携帯用の裁縫道具、そして閃光弾だけ。
致命傷は避けている。だが、じわじわと追い詰められ、逃げ場は確実に失われていた。
「どうしたね、お針子くん。もう手詰まりかな?」
高い足場の上から、ヴァルデング判事の楽しげな声が降ってくる。
「君のその『手』は、もう使い物にならないね。……可哀想に。お針子にとって命よりも大切な指を傷つけられて」
嘲笑と共に、空間が歪んだ。
今度は三体同時だ。
正面、右、そして背後。
逃げ場はない。死の感触が、冷たい風となってベラの首筋を撫でた。
(……団長)
ベラは目を閉じた。
どうか、あの子が真実に目覚めますように――。
その時だった。
ドォォォォォォン!!
爆音と共に、倉庫の厚い鉄扉が内側にひしゃげ、吹き飛んだ。
舞い上がる土煙。
そして、瞬時に倉庫内の気温が氷点下へと急降下した。
「……私のベラに、触れてくれるなァァァァァッ!!」
絶叫が響き渡る。
土煙を切り裂いて現れたのは、青白い魔力のオーラを全身に纏った、銀髪の騎士だった。
クラリス・フォン・アルゼイン。
その瞳は激情で燃え上がり、手にした細剣からは煌めく白煙が噴き出している。
「氷棺!!」
クラリスが剣を床に突き立てる。
バキバキバキッ!
床から巨大な氷の柱が一斉に突き上がった。
それは正確に、ベラの血を受けた魔獣たちの座標を捉えていた。
「ギチチッ!?」
断末魔の悲鳴すら凍りつく。
ベラを取り囲んでいた三体の魔獣は、一瞬にして分厚い氷の中に閉じ込められ、その醜悪な姿を晒したまま圧殺された。
「……はぁ、はぁ、はぁ……!」
圧倒的な破壊力。
クラリスは肩で息をしながら、すぐに剣を引き抜き、ベラの元へ駆け寄った。
「ベラ! 無事か!?」
クラリスがベラの肩を抱く。その手は小刻みに震えていた。
ベラは驚きに見開いた目で、目の前の主を見つめた。
乱れた髪。泥だらけのマント。そして、泣き出しそうなほど歪んだ顔。
「……団長。来て、くださったのですね」
「当たり前だ! 貴様、あんな手紙を残して……馬鹿者が!」
クラリスはベラの手を取り、甲の切り傷を見て顔色を変えた。
「血が……! 痛いか? すまない、私がもっと早く……!」
「いいえ。かすり傷です。……それよりも」
ベラは微笑んで、血の滲んでいない方の手で、クラリスの襟元に触れた。
「襟が、曲がっていますよ。……折角の格好良い登場が台無しじゃあないですか」
ベラがくい、と襟を直すと、クラリスは一瞬呆気にとられ、次いで目尻に涙を浮かべて笑った。
「……こんな時にまで、貴様は……!」
二人の間に、戦場には似つかわしくない温かな空気が流れた。
だが、それを切り裂くように、乾いた拍手が響いた。
パチ、パチ、パチ、パチ。
「残念な仕上がりだ。……しかし、感動したよ、クラリス」
足場の上で、ヴァルデングが拍手をしていた。
その顔には、先ほどまでの慈愛の仮面など微塵もない。あるのは、失敗した実験動物を見る科学者の、冷酷な偏愛だけだった。
「お義父様……いえ、ヴァルデング!」
クラリスはベラを背に庇い、剣を突きつけた。
「ベラの言っていたことは本当だったのですね。貴方が……貴方が、この魔獣を使って人々を!」
「ああ、その通りだ。治安維持のためには、適度な恐怖と、それを払拭する英雄が必要だからね」
ヴァルデングは悪びれもせず、肩をすくめた。
「だが、少し予定が狂った。まさかお前が、ここまで早く『感情』という不純物を取り戻してしまうとは。……あのお針子のたらし術は、よほど手慣れたものだったと見える」
「……不純物だと?」
「そうだ。クラリス、お前は私の最高傑作だった。感情を持たず、私の命令だけを聞き、敵を殲滅する冷徹な『氷の処刑人』……。そうなるように、私が手塩にかけて育てたのだから」
ヴァルデングは手すりに身を乗り出し、残酷な真実を語り始めた。
「お前の両親は事故死したと思っているだろ? 違う。私が天へ誘ったんだ」
「な……?」
「彼らは邪魔だった。お前という稀代の才能を、ただの愛玩人形として甘やかしていたからな。だから排除した。……お前の姉もそうだ」
クラリスの思考が凍りつく。
姉? 私に姉がいたのか?
「お前には三つ上の姉がいた。だが、彼女は魔力の才能がなかった。お前の足枷になる。だから、お前が物心つく前に処分した」
ヴァルデングは、虫けらを潰した話でもするように続けた。
「お前を孤独にしてあげたのは私だ。お前から温かいものを奪い、私だけを頼るように仕向けたのも私だ。……すべては、お前を『孤独で完璧な剣』として完成させるためだ」
精神がガラガラと音を立てる。
クラリスの中で、世界が崩れ落ちていく。
優しかった父の笑顔。
頭を撫でてくれた掌。
「クラリスのためだ」という言葉。
そのすべてが、悪意と計算に満ちた虚構だった。
自分は愛されていた娘ではない。
ただの、作られた「凶器」として研ぎ澄まされていたに過ぎない。
「あ……あ、ぁ……」
カラン。
クラリスの手から、細剣が滑り落ちた。
乾いた音が、静寂に響く。
「嘘だ……嘘だ……」
「真実だよ。……だが、残念だ。お針子ごときに絆されて、駄作に成り下がるとは」
ヴァルデングは冷たく見下ろした。
「お前たち(魔獣)、壊せ。彼女を作り直す。勘違いするなよ。殺すのはお針子だけだ。クラリス、お前は私の目の前で愛する者を失い、絶望の淵で再び『感情のない人形』に戻るのだ。そうすれば、私がまた一から教育し直してやろう」
彼が指を鳴らすと、倉庫の奥から新たな増援が現れた。
十体以上の透明魔獣。
殺気が膨れ上がる。
「団長! 剣を拾ってください! 団長!」
ベラが叫ぶ。
だが、クラリスは動かない。瞳からハイライトが消え、糸の切れた人形のように呆然と立ち尽くしている。
(……だめ。心が壊れてしまった)
ベラは悟った。
今のクラリスには、戦う意志どころか、生きる意志さえ残っていない。
「……仕方ありませんね」
ベラは覚悟を決めた。
守られるだけのヒロインではない。ここからは、自分が騎士になる番だ。
ベラは懐から、閃光弾を取り出した。
「団長、目を閉じて!」
ベラは閃光弾を魔獣の群れの中へ投げ込み、同時にクラリスの頭を抱え込んで目を塞いだ。
カッッッ!!!!
強烈な閃光と爆音が炸裂する。
暗闇に慣れていた魔獣たちが、視界を焼かれて悲鳴を上げ、のたうち回る。
ヴァルデングさえも腕で顔を覆った。
「走りますよ!」
ベラは廃人同然のクラリスの手首を掴み、強引に立たせた。
重い。まるで死体を引きずっているようだ。さらに、細剣を拾い上げる。
だが、ベラは歯を食いしばり、裏口の扉を蹴破った。
外は、激しい土砂降りだった。
夜の闇と雨音が、二人の逃走を隠してくれる。
ベラは泥に足を取られながらも、クラリスの手を離さず、入り組んだ地下水路へと飛び込んだ。




