第22話 最後のスープ
第零班の執務室。
ベラの元に、一通の速達が届いた。
差出人は不明。だが、封蝋には裁判局の紋章が押されている。
『先日の通り魔事件について現場にいた者に調書を取る。廃棄4区画、第3倉庫へ来られたし』
典型的な罠だ。
だが、ベラに選択肢はなかった。
もしここで裁判局の要請を断ったとしても、白昼に街中で襲われる。
「……行かなきゃ」
ベラは静かに立ち上がった。
最後に、何かを残すべきか。
遺書? いや、そんなものを残せば、あの子は一生自分を責めるだろう。
ベラは魔導コンロに火を点けた。
冷蔵庫からカボチャとミルクを取り出す。
コトコトと煮込む音だけが、静寂な部屋に響く。
完成したのは、黄金色のポタージュスープ。
あの子が一番好きな、初めて作ってあげた「始まりの味」。
ベラはそれを保温ポットに入れ、メッセージカードを添えた。
『晩御飯です。温かいうちに召し上がってください。……風邪を引かないように』
「さようなら」とは書かない。
ただの日常の続きであるように。明日もまた会えるように。
それが、ベラができる精一杯の嘘だった。
ベラは愛用の裁縫箱を持たず、代わりに数個の閃光弾をポケットに詰め込んだ。
エプロンを外し、部屋を出る。
廊下を歩いていると、向こうから見慣れた銀髪の少女が歩いてきた。
クラリスだ。外出先から戻ってきた。
二人はすれ違う。
「……」
「……」
言葉はなかった。
クラリスは「お義父様は無実だったぞ」と言おうとして、口を開きかけた。
だが、ベラの顔を見て言葉が詰まった。
ベラは余裕を見せて笑っていた。
いつものように穏やかで、優しくて……でも、どこか透き通って消えてしまいそうな、悲しい笑顔で。
ベラは一瞬立ち止まり、クラリスの襟元に手を伸ばしかけた。
少し曲がっている。直してあげたい。
けれど、その手は空中で握りしめられ、ゆっくりと下ろされた。
(……行ってまいります、団長)
ベラは深々と頭を下げ、クラリスの横を通り過ぎた。
日向の匂いが、ふわりと香って消えた。
クラリスはその場に立ち尽くし、遠ざかる背中を見つめることしかできなかった。
胸の奥で、警鐘が鳴り響いているのに。
それを認めてしまえば、自分の信じてきた世界が壊れてしまうから。
+++
王都の外れ、廃棄4区画。
かつて食肉加工場だったというその倉庫は、錆とカビ、そして古い血の臭いが染み付いていた。
夕闇が迫る中、ベラは一人、その重い鉄扉を開けた。
「……よく来たね、お針子くん」
倉庫の中央、高い足場の上にヴァルデングが立っていた。
その背後には、数名の部下が控えている。
だが、ベラが警戒したのは彼らではない。
周囲の「空間」だ。
カチ、カチ……。
カチ、カチ、カチ……。
何もないはずの空間から、硬質な音が響く。
一つではない。十、いや二十。
群れだ。
「私の可愛いクラリスに、随分と余計なことを吹き込んでくれたようだね」
ヴァルデングが指を鳴らす。
「教育が必要だ。……二度と、余計な口がきけないように」
空間が揺らぐ。
透明魔獣の群れが、一斉にベラに襲いかかった。
姿は見えない。音と、殺気だけが迫る。
「……ッ!」
ベラは床を転がり、最初の一撃をかわした。
だが、かわしきれない。
ザシュッ!
見えない刃が、ベラの左手の甲を浅く切り裂いた。
鮮血が舞う。
「くっ……!」
ベラは意識を集中して突破口を探す。
空間認識と聴覚、そして「針子の眼」を全開にして、空気の歪みを読む。
だが、多勢に無勢だ。
次々と増える切り傷。体力と血液が奪われていく。
(……ごめんね)
追い詰められ、壁際に蹲るベラ。
死の予感が背筋を撫でる。
その時、脳裏に浮かんだのは、復讐を誓った妹の笑顔ではなく――
――不器用にオムレツを頬張るクラリス。
――「日向の匂いだ」と抱きついてくるクラリス。
――ボタンを直されて、嬉しそうに袖を撫でていたクラリス。
(……だめ。私が死んだら、誰があの子のボタンを直すの?)
(誰が、あの子の冷え切った体を温めてあげるの?)
(あの子は……まだ、自分で背中のリボンも結べないのに!)
「……まだ、死ねない!」
ベラは血まみれの手を握りしめた。
諦めない。
あの子の「仕立て直し」が完了するまでは、絶対に。
+++
一方、第零班の執務室。
戻ってきたクラリスは、誰もいない部屋の静けさに息を詰まらせていた。
ギルバートも帰宅し、完全な独りだ。
「……ベラ?」
呼んでも返事はない。
机の上には、ポツンと保温ポットと手紙が置かれている。
クラリスは吸い寄せられるように近づき、ポットの蓋を開けた。
ふわりと立ち上る湯気。
甘いカボチャとミルクの香り。
「……スープ?」
クラリスはスプーンを手に取り、一口啜った。
「……っ」
口の中に広がったのは、ただの料理の味ではなかった。
冷え切った体を芯から温める優しさ。
疲れた胃に染み渡る、計算し尽くされた塩加減。
そして何より、食べる人の健康と幸せを願って作られた、深い愛情の味。
カチャン。
スプーンが皿に当たる音。
クラリスの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「……嘘だ」
ヴァルデングは言った。彼女は嘘つきで、妄想狂だと。
だが、この味は嘘をつかない。
悪意のある人間、精神を病んだ人間に、こんなにも優しくて、泣きたくなるほど温かいスープが作れるはずがない。
「……ベラは、嘘をついていない」
体が、心が、魂が理解した。
自分を本当に大切にしてくれているのは誰か。
自分を「人形」としてではなく、「人間」として愛してくれているのは誰か。
その時、入口の扉が荒々しく開いた。
息を切らせたギルバートだ。
「だ、団長! 大変です!」
「どうしたギルバート」
「ゴミ出ししてから帰ろうとしたんですが、集めたごみの中から……これが!」
ギルバートが差し出したのは、くしゃくしゃに丸められた封筒だった。
ベラへの召喚状。
『先日の通り魔事件について現場にいた者に調書を取る。廃棄4区画、第3倉庫へ来られたし』
廃棄4区画、第3倉庫。そこは行方不明者が多数出る場所として有名で、以前にもベラとこの事で話をしたことがある。
「……あいつ、罠だと知ってて……!」
クラリスの手の中で、封筒が凍りつき、粉々に砕け散った。
もう迷いはない。
父への思慕も、洗脳も、すべてこの熱いスープが溶かしてしまった。
「ギルバート! 馬を出せ! 最速のやつだ!」
「は、はいっ!」
「……待っていろ、ベラ。今行く!」
クラリスは窓のない地下室を飛び出した。
その瞳には、かつての「氷の処刑人」の冷たさはない。
大切な家族を奪われまいとする、激情の炎が青く燃え盛っていた。
夜の王都を、一頭の馬が矢のように駆け抜けていく。
スープの温もりを胸に、彼女は戦場へと急ぐ。




