第8話「分裂宣言」
砂原の「分裂宣言」は、拍手喝采でも、猛反発でも迎えられなかった。
ただ、みんなが沈黙した。
点呼が終わった直後。
北條の「十三」が響き、いつものように一瞬だけ空気がゆるんだところで、砂原は立ち上がった。
「明日から、“点呼を拒否する班”を作る」
唐突に、そう言った。
ユウは思わず顔を上げる。
「点呼を……拒否?」
「そうだ」
砂原は、乾いた唇を舌で湿らせながら続ける。
「ここ数日の流れをおさらいしよう。俺たちは毎朝、生きてる自分たちの名前を数え、死んだ何者かの袋を数え、黒板に数字を刻んできた。結果はどうだ」
体育倉庫の奥。
黒い列が、またひとつ増えて七つになっている。
「死体は増え続けている。点呼の祈りも、自己検死も、鏡像仮説も。全部やった。全部やった上で、数字だけはきっちり増えている」
砂原の声には、苛立ちと疲労と、わずかなやけのようなものが混じっていた。
「だったら、逆を試す番だ」
「逆?」
御子柴が、半分笑いながら聞き返す。
「数えるのをやめるって?」
「そう」
砂原は頷く。
「数字の神様とやらに、反乱を起こす。“数えなければ、増えない”。そういう賭けだ」
沢村が、眉間にしわを寄せた。
「待て。点呼は、俺たちの“生存確認”でもある。やめるのは危険だ」
「全部やめるんじゃない」
砂原は、両手を軽く上げる。
「二つに分ける。明日から、“点呼を続ける班”と“点呼を拒否する班”。今日みたいな班分けを、今度は“数えるか数えないか”でやる」
「……また分けるの?」
藤咲が、顔をしかめる。
「この狭いところで、これ以上バラバラになったら、心まで割れちゃう気がする」
「今だって、十分割れてるさ」
田所が、小さく笑う。
「“鏡像仮説”とか“供物の理屈”とか、すでに頭の中で世界を二重にしてる。だったら、物理的にもはっきり分けてしまったほうが、むしろ混乱は減る」
「俺は賛成だ」
駒田が、珍しく真っ先に賛同した。
「少なくとも、“点呼をしても意味がない”という証拠は、もう十分ある。逆を試す価値はある」
「意味はある」
北條が、珍しく強い口調で言った。
「点呼は、数字のためじゃない。私たちが互いの存在を確認するための……」
「その結果、毎朝一体ずつ死体が増えているなら、“祈り”の向き先を間違えているのかもしれない」
結城が、静かに割って入る。
「砂原の案は、実験として意味がある。もし“点呼を拒否した班”の側で死体の増え方に変化が出れば、“数えることが条件になっている”と仮定できる。逆に、何も変わらなければ、その仮説は捨てられる」
「人間を実験台みたいに言うなよ」
三輪が、不安そうに笑う。
「でもまあ、ずっと実験台みたいなもんか。ここにいる時点で」
「……決めよう」
沢村は、しばらく黙ったあと、短く言った。
「やるなら、線引きははっきりさせる」
結局、翌朝から。
僕らは、二つのグループに分かれることになった。
一つは「点呼継続班」。
今まで通り、輪になって名を名乗り、北條が数える。
もう一つは「点呼拒否班」。
同じ倉庫の隅で、輪にもならず座り、名前を呼ばない。数えられない。
砂原は、迷わず拒否班に入った。
駒田と三輪も、そちらに入った。ほかにも数人。
僕は――悩んだ末に、点呼継続班を選んだ。
数字の神様の機嫌を取るためじゃない。
自分の中で、一つだけは“変えたくないもの”があったからだ。
毎朝、自分の名前を言うこと。
その声が、自分を自分として繋ぎ止めている気がしていた。
「ユウは、そっちなんだ」
拒否班に座りながら、砂原が少しだけ残念そうに言った。
「悪い」
「謝るな。これはそういう分け方だ」
砂原は、苦笑した。
「どっちが正しいかなんて、今は誰にも分からない。だから、どっちもやるしかない」
朝が来た。
ひび割れた壁の向こうで、何かが軋む音がする。
生者十三。
死体七。
それが、昨日までの数字。
今日がどうなっているかは、まだ誰も見ていない。
「じゃあまず、死体の確認からだ」
沢村が言う。
「点呼は、そのあとだ。“する班”も“しない班”も、そこだけは共通で」
全員がうなずく。
砂原も、拒否班のメンバーも、とりあえず立ち上がる。
倉庫の奥。
黒い列が、視界に入った瞬間。
ユウは、息が止まった。
「……八」
誰ともなく、その数字が漏れる。
死体袋は、七つから、八つに増えていた。
規則正しく並ぶ黒。
ジッパーはすべて閉じている。誰の顔も見えない。
拒否班も継続班も、関係なかった。
数えようが、数えるまいが。
向こうのルールは、一切変わっていない。
「……な?」
三輪が、乾いた笑いを漏らす。
「俺らが数えても数えなくても、増えるやつは増えるってわけだ」
「まだ決めつけるな」
結城が小さく首を振る。
「一日で判断するには早い。今日の結果は、“昨日までの行動”の影響かもしれない」
「にしても、タイミング良すぎるだろ」
御子柴が、ため息混じりに笑った。
「“数えなければ増えない”って賭けた瞬間に、きっちり義務を果たしてやがる。真面目だな、数字の神様」
「笑い事じゃない」
北條が、震える声で言った。
「今朝からだよ? 私たちが“分裂”したのは。きっと、神様は……」
「だから、その神様って言い方やめろって」
駒田が苛立ったように声を上げる。
「概念の話をしてるんだ。擬人化するな。余計ややこしくなる」
「でも、“ややこしい”くらいじゃないと、心が持たないんだよ」
御子柴が肩をすくめた。
「で、どうする。点呼」
「予定通りやる」
沢村は迷わなかった。
「継続班は輪になって。拒否班は、そのまま見ていてくれ」
僕らは、体育マットの上に輪を作る。
拒否班は少し離れた場所に固まり、壁を背にして座った。
三輪が膝を抱え、目をそらすようにうつむいている。
「……始めよう」
沢村の声で、点呼が始まった。
今日は、田所の“名を奪うゲーム”はなしだ。
順番はきっちり決められている。自分の名前を言い、隣の肩に触れ、北條が数字を数える。
その一つ一つが、やけに重く感じられた。
自分の番が来る。
「高城ユウ」
喉の奥がひりつく感覚を押し殺して、自分の名を言う。
あの“余剰の声”が、またどこかで待ち構えている気がした。
……今日も、最後に呼ぶつもりか。
それなら、こっちから先に呼んでやる。
そう思って、いつもより少し強く声を出した。
北條の数字が、十三で止まる。
余分な声は――
今朝は、聞こえなかった。
だからといって、安心できるわけでもない。
点呼が終わり、輪がほどける。
拒否班のほうでは、砂原が立ち上がってみんなを見回していた。
「よし。今日から、俺たちは“数えられない側”として行動する」
「かっこよく言ってるけどさ」
三輪が、壁に頭を預けたままぼやく。
「こっちはこっちで、不安半端ないからな。自分が数えられてないって言われると、存在薄くなった気がする」
「薄くなってもいい」
砂原は、あえてきつい言葉を選んだ。
「その薄さが、“向こう側から見えない”って意味だったら、それで十分だ」
結城はそんな彼らを横目に見ながら、黒板の前に立った。
今日も、「十三|七」を「十三|八」に書き換える必要がある。
だが、その役目は――
「今日も、ユウ。頼めるか」
沢村が、僕を呼んだ。
右手にチョークを握り、黒板に向き合う。
十三|七。
右側の七を、八に書き換える。
十三|八。
チョークの粉が、指に絡みつくように感じた。
黒板の表面が、また薄く光っている。
チョークの白さが、銀の膜みたいに反射している。
そこに映った自分の顔が、ふと歪んだ。
鏡ではない鏡。
向こう側で、誰かが同じ数字を書いている。
そんな妄想が、頭にこびりついて離れない。
昼過ぎ。
それは、突然だった。
「いっ……!」
藤咲が、短く悲鳴を上げてうずくまった。
「どうした!」
ユウは慌てて駆け寄る。藤咲は腹を押さえ、冷や汗を滲ませていた。
「お腹……急に、ぎゅって。締め付けられるみたいに……」
声が震え、呼吸が浅い。
「楢崎!」
沢村が叫ぶより早く、楢崎は藤咲のそばに膝をついていた。
「いつからだ。さっきまで痛そうにはしてなかった」
「分かんない。急に……」
藤咲の視線が泳ぐ。
医者である楢崎の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「出血は?」
「今は……分かん、ない」
「毛布を捲って確認する。妻や夫じゃなくて悪いが、我慢してくれ」
楢崎は、できるだけ視線を逸らすようにしながら手早く状態を見た。
腹部を優しく押し、冷たさや硬さを確かめる。
駒田が近くで見守りながら、必要なものを手渡していく。タオル、水。限られた資源だけが、ここにはある。
「どうだ」
砂原が、緊張した声で問う。
「現時点では、大出血はない。けど、この環境が悪すぎる」
楢崎は、藤咲の額の汗をタオルで拭う。
「脱水と栄養失調。ストレス。そこに冷えが重なってる。胎児への影響も……正直、自信を持って何か言える状況じゃない」
「何か、できることはあるの」
藤咲が、苦しそうに笑う。
「出血が増えたら、どうせ分かるんでしょ。だったら、その前に……」
「体温を上げる。腹部を冷やさないようにする。それしかない」
楢崎は、歯噛みするように言った。
「でも、毛布だけじゃ温度が足りない。熱源が……」
その言葉に、誰かの喉が鳴った。
駒田だ。
彼は、ちらりと死体袋の列を見てから、決断した顔つきになった。
「……ごめん」
何に対しての謝罪か分からない言葉を残し、駒田は立ち上がる。
「駒田?」
「布がいる。厚手の。吸湿性のあるやつ。今ある毛布だけじゃ足りない」
そう言って、彼は迷わず死体袋の一つに近づいた。
誰かが息を呑む。
「おい、待て」
御子柴が慌てて駆け寄る。
「開けるのかよ」
「中に何が入っているかを見るのは、楢崎と俺だけでいい。嫌なやつは目を逸らせ」
駒田は、躊躇なくジッパーに手をかけた。
金属の歯が擦れ合う音が、狭い倉庫に響く。
黒い口が、ゆっくりと開いていく。
これまで誰も見たがらなかったもの。
見ずに済むなら、そのままにしておきたかったもの。
でも今は、藤咲と、その腹の中の子どもの体温のほうが大事だった。
駒田は、唇をきつく結びながら袋を開き、すぐに視線を下に落とした。
ユウは、怖かった。
それでも、目を逸らせなかった。
袋の中に横たわっていたのは――やはり、人間だった。
青白くなった皮膚。
うっすらと開いた目。
左右反転した痣や傷。
誰かに似ているようでいて、決定的に違う。
鏡の向こうの“僕たち”。
「……服だ」
駒田は、震える手で死体のシャツをそっと引き上げた。
厚手の布地。汗を吸ってもすぐには冷たくならない。
生きている人間の体温に、一時的にせよ寄り添ってくれそうな素材だった。
「借りるぞ」
駒田は、死体にそう告げるように呟いた。
そして、そのときだった。
「なあ」
御子柴が、袋の内側を指さした。
「これ……見えるか」
内側の黒い生地に、白い粉がびっしりと付着していた。
斑点ではない。
こすれた跡。指でなぞったような線。掌でこすりつけたような広がり。
「チョーク……?」
片桐が、思わず口にする。
「いや、これは……」
結城が顔を近づける。
「黒板、だな」
袋の内側に付いた粉を、指でそっとなぞる。
指先に、じんと馴染む感触。乾いた白。
「黒板の粉と同じ。匂いまで」
駒田も、驚いたように眉をひそめた。
「どういうことだ。中から粉が付く理由なんてないだろ。輸送の途中で黒板の近くを通るにしたって、ここまでびっちり付くか?」
袋の内側をよく見ると、粉は一方方向に流れているようにも見えた。
まるで、誰かが袋の中で手を伸ばし、壁をなぞったみたいに。
ユウの背中に、氷水を流されたような感覚が走る。
黒板。
自分の指先。
チョークの粉で白くなった爪。
「……分かりやすいな」
田所が、苦笑交じりに言った。
「これでほぼ確定だ。“向こう側で書かれた黒板”に、何らかの形で接触した死体が、こっちに送られてきてる」
「確定って……どういう意味だよ」
三輪が、震える声で問う。
「黒板、叩いてみなよ」
田所は立ち上がり、黒板の裏側に回った。
体育倉庫の仕切りとして立っているその板は、表に数字、裏に傷が刻まれている。
田所は、拳で裏を叩いた。
ドン、と鈍い音が響く。
「おーい。“向こう側”。聞こえるか」
田所は、わざと陽気な声を出した。
「死体袋の内側に粉を付けて送ってくるとか、分かりやすいヒントありがとう。“そっち”でも、こっちと同じように黒板使ってるんだろう?」
「やめろ」
結城が、強く言う。
「煽るな。相手が何かも分からないのに」
「分からないから煽るんだよ」
田所は、黒板を叩き続ける。
「“向こうが書いている”。それだけは、ほぼ確実になった。俺たちが書いているつもりでも、その手は“向こうの手”と繋がっている。だから、袋の内側にも粉が付く」
その言葉に、ユウの心臓がぎゅっと縮んだ。
袋の内側の粉。
指でなぞった線。
あれは、どこか、自分の指の幅に似ていた。
わずかに開いた間隔。
粉の付き方。
力の抜けた跡。
「……ユウ?」
隣で見ていたシオリが、小さくささやく。
「顔色、悪いよ」
「平気」
反射的に返事をする。
黒板に触るたび、自分の指先が“向こう側”にも伸びている気がする。
袋の内側で、誰かが“自分の手”に触れている気がする。
「ちょっと、水……」
ユウはその場を離れ、隅のペットボトルのところへ向かった。
貴重な水だと分かってはいる。
でも、今はどうしてもやりたいことがあった。
体育倉庫の片隅。
割れた洗面器のような浅い器に、少量の水を注ぐ。
右手を突っ込む。
指先を、必死にこすり合わせる。
チョークの粉は、水で簡単に落ちるはずだ。
これまでも、何度もそうしてきた。
でも。
「……落ちない」
どれだけこすっても、白さが消えなかった。
物理的には、たぶん粉は落ちている。
それでも、指先にははっきりと“白い感触”が残っている。
関節の隙間。
爪の際。
皮膚のしわ。
そこに、白い何かがこびりついていて、決して離れようとしない。
冷たいのか温かいのかも分からない感触が、指から腕へ、腕から胸へとじわじわ広がっていく。
「……ユウ」
背後から、御子柴の声がした。
「無駄だと思うぞ」
「放っておけよ」
「放っておけねえよ」
御子柴は、洗面器の縁に腰を下ろした。
「さっきから、お前の背中、今にも折れそうなくらい丸まってる」
「俺の背骨の話はどうでもいい」
「良くない」
御子柴は、真顔で言った。
「黒板に一番触ってるのは、お前だろ。数字を書いてるのも、お前。田所が“向こうも書いてる”って叫んでるのを聞いて、一番やられるのはお前に決まってる」
図星だった。
だから、余計に腹が立つ。
「じゃあ、どうしろって言うんだよ。書くのをやめろって? 誰か他のやつに擦り付けろって?」
「そうは言ってない」
御子柴は、少しだけ息を吐いた。
「さっき田所が叩いてた黒板、見てたか」
「見てない」
「裏、ひびだらけだったぞ。向こうからも、こっちからも叩かれてる。どっちが先かなんて分からない。だからさ」
御子柴は、ユウの右手を軽く指で叩いた。
「これが“向こうの手”だなんて、簡単に認めんな」
自分の手を、自分として信じろ。
そんな言葉が、そこに含まれている気がした。
ユウは、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
「……分かってる」
本当は、分かってなんかいない。
でも、今はそれしか言えなかった。
そのとき。
倉庫の反対側から、妙な笑い声が聞こえてきた。
「はは……はははは」
乾いた、少し空回りした笑い。
御子柴だった。
彼は死体袋の列の前に立ち、その数を指折り数えながら笑っていた。
「一、二、三、四、五、六、七、八。ははは。増えてる増えてる」
「おい、何してんだお前」
砂原が慌てて駆け寄る。
「“笑って数える”儀式」
御子柴は、ケロリと言った。
「怖いからさ。黙って数えると、どうしても“神聖なもの”みたいになるだろ。だったらいっそ、笑って数えたほうがマシだと思って」
「バカか」
結城が、今度は本気で怒った顔になった。
「そんなことをして何になる。数字を“軽く扱っているふり”をしたところで、現実の増加は変わらない」
「ふりじゃなくて、本当に軽く扱いたいんだよ」
御子柴は笑いながらも、目だけが笑っていなかった。
「毎朝、仏壇みたいに数字を拝むのはもううんざりなんだ。だから、逆儀式。数を笑い飛ばす」
「笑い飛ばせてないじゃないか」
結城の声が、少し震えた。
「お前の笑い方は、“怖いものに近づきすぎた子ども”のそれだ。そうやって近づきすぎると、向こうのほうが喜ぶ」
「向こうって誰だよ」
「分からないから怖いんだよ」
結城は、御子柴の腕を引いた。
「やめろ。これ以上、数字を“弄ぶ”な。鏡像仮説だの供物の理屈だの、ここ数日で分かっただろ。向こうは、こっちがルールに触れるたびに、それを取り込んでくる」
「じゃあ何もしないでいろってのか」
「そうは言ってない。ただ、“笑いながら数える”なんて真似は、火にガソリンをかけてるようなものだ」
二人の間に、ぴりっとした空気が走る。
砂原が、間に入って二人を引き離した。
「はいストップ。喧嘩する余力があるなら、他に回せ。御子柴、その儀式は一旦禁止だ」
「……了解」
御子柴は、渋々腕を下ろした。
数字は、笑っても、祈っても、怒っても、黙って数えても。
同じように増えていく。
その夜。
藤咲の腹痛は、どうにか小康状態を保っていた。
死体から借りた服は、彼女の腹の上に重ねてかけられている。
布からは、かすかに人の匂いがした。誰かの汗と、洗剤と、時間の混ざった匂い。
「ごめんね」
藤咲は、誰にともなく呟いた。
「自分のために、誰かの服もらっちゃって」
「向こうの誰かも、怒らないさ」
楢崎が、小さく笑う。
「きっと、“使え”って言う。医者として、そう信じたい」
ユウは、そのやり取りを少し離れた場所から見ていた。
黒板には、「十三|八」が刻まれている。
その前に立つ気には、今日はなれなかった。
体育マットの上に横になり、目を閉じる。
眠気はあるのに、意識が落ちない。
瞼の裏側で、黒板の数字がちらつく。
十三|八。
十三|九。
十三|十。
勝手に増えていく数字を、頭の中で止められない。
「……なあ」
暗闇の中で、声がした。
三輪だ。
彼は、毛布に包まりながら天井を見上げている。
「今日さ。俺、昼寝してたときに変な夢見たんだ」
「夢?」
ユウは、顔だけ向ける。
「点呼の夢」
三輪は、ぽつりと言った。
「ここじゃない場所だった。もっと広くて、天井も高くて。俺たちと同じ顔のやつらが、横一列に並んでた」
背筋が、また冷たくなる。
「そいつらがさ。全員、同じように名前を名乗るんだよ。“三輪”って。俺も、“三輪”って名乗らされる。それで、誰かがずっと数えてる。“一、二、三……”って」
「……ここでの点呼と同じ?」
「似てるけど、違う」
三輪は、眉をひそめた。
「ここでは、“十三”で止まるだろ。でも、夢の中の声は止まらないんだ。“十四、十五、十六……”って。三輪が何人もいる。俺っぽいやつもいれば、俺を少し歪めたようなやつもいる」
言葉に、かすかな震えが混じる。
「でも一番怖かったのは、その中に“俺がいない”って感覚だ」
「どういうことだ」
「名を呼ばれてる。数えられてる。でも、どれも俺じゃない。俺の名前を使ってる“誰か”ばっかりで、本物の俺はどこにもいない感じ」
ユウは、喉がひりつくのを感じた。
昼の“名前のゲーム”。
夜の点呼。
余剰の声。
そして今、夢の中の点呼。
「……気のせいかもしれないけどさ」
三輪は、毛布を頭までかぶった。
「起きたとき、やけに息が切れてたんだよ。走ってもいないのに。夢の中で、“数えられ疲れ”したみたいに」
誰も、すぐには言葉を継げなかった。
眠っていても、数えられている。
意識が落ちているあいだも、どこかの“数字の列”に自分の名が並べられている。
ユウは、ゆっくりと目を閉じた。
黒板の「十三|八」が、瞼の裏に焼き付いている。
その向こう側で、誰かがチョークを握って同じ数字を書いている。
眠ったふりをしても。
起きて抗おうとしても。
数は、止まらない。




