第11話「数えることをやめる」
夜明け前の体育倉庫は、いつもよりも静かだった。
ひび割れた壁の向こうから聞こえていた金属音も止み、風の音さえ遠い。倉庫の中で鳴っているのは、浅く早い息と、時おり漏れるうめき声だけだ。
「……っ、は……!」
藤咲が、汗だくになった顔をゆがめ、毛布を握りしめる。楢崎がそのそばで、タオルと水と、わずかな布を手際よく扱っていた。
「いい、いい。来てる。呼吸を合わせて。吸って、吐いて。波に乗る」
「……乗れない、よ……!」
「乗れる。ここまで来たんだ。あと少しだ」
楢崎の声は限界までやせているのに、不思議と揺れない。彼の手は震えていたが、その震えを知っているのは、自分自身だけだろう。
体育マットの周りには、毛布を立てて作った即席の壁。その外側で、ほかの連中が息を殺している。誰もさわぎはしない。ただ、耳をふさぐ勇気もない。
十三と十三がそろった世界で、生まれようとしているのは“十四番目”だ。
「……くる」
藤咲が、途切れ途切れの息の中で言った。
「次くる……!」
「来い」
楢崎が、短く答える。
「ここに来い」
次の瞬間、空気そのものがきしんだような気がした。
低く押し殺した叫びが、体育倉庫の天井まで届く。毛布の中の様子は見えない。けれど、そこに集まっている力のすべてが、音と空気で伝わってきた。
しばらくの沈黙。
それから――
か細く、それでも確かに、それは鳴り始めた。
「……おぎゃ……」
かすれた、小さな声。
まだこの世に慣れていない喉が、必死に空気を掴もうとしているみたいな泣き声。
一度鳴ったそれは、すぐに形を変えて大きくなった。
「おぎゃあああああ!」
泣き声が、闇を貫いた。
ひび割れた壁。黒い死体袋の列。粉だらけの黒板。冷え切ったマット。固まっていた空気全部に、その声が叩きつけられる。
それは、「十四」という数字よりも先に、“ここに新しい何かが生まれた”という宣言だった。
「……産声だ」
三輪が、誰にともなくつぶやく。
口の中が乾き切っていたのに、その言葉だけは勝手に漏れた。
「ほんとに……生まれたんだ」
毛布の壁の外側からも、安堵とも混乱ともつかない息が漏れる。
御子柴が、床に腰を落とした。
「マジかよ……こんなとこで」
「ほら」
楢崎の少し掠れた声。
「泣け。もっと泣け。生きてるだけで偉いんだ、お前は」
また泣き声が強くなる。小さな肺が、体育倉庫という箱の空気を掻き集めている。
十三と十三で埋まっていた世界の真ん中に、数えられない何かが割り込んできた。
ルールが、ほんの少しだけ、音を立ててひび割れる。
◇
「……十四、だな」
誰かが言いかけた言葉を、ユウは喉の奥で飲み込んだ。
言葉にした瞬間、数字になる。
数字になった瞬間、あの黒板に書かれてしまう。
書かれた瞬間、向こう側にも“十四”が生まれる。
そんな気がした。
「ユウ」
沢村が、黒板の前で立ち尽くしているユウの肩を軽く叩いた。
「書くか」
黒板には、まだ「十三‖十三」が残っている。
死体十三。生者十三。
さっきまでは、それがこの箱のすべてだった。
今は違う。
どこかで泣いている、その声が。“十四”という可能性を、この倉庫にねじ込んできた。
「……生十四」
チョークを握りながら、ユウは小さくつぶやいた。
ここにいる十三人と、毛布の向こうの一人生まれたばかり。
生きている存在の数は、十四になる。
黒板の上の端に、大きく“生十四”と書こうとして――手が止まった。
チョークの先が、何も書かれていない黒板の空白を削るように沈み込む。白い粉が、かすかに落ちた。
書いた瞬間、向こう側にも“生十四”が生まれる気がする。
十三‖十三が、十四‖十四になる。
ぴったりそろった瞬間、また“同数への行進”が始まる。
せっかく崩れかけたバランスが、もう一度固まってしまう。
「ユウ?」
シオリが、不安そうに覗き込む。
「書かないの?」
「……書きたくない」
ユウは、チョークを握った手を下ろした。
「書いたら、また元に戻る気がする。十四も、向こう側に吸われる」
「でも、記録は」
「記録なんかいらない」
自分でも驚くくらい強い声が出た。
黒板は、ずっとここにあった。
崩落で閉じ込められてからの日数も、死体の数も、祈りの形も、全部この板が“記録”してきた。
そのたびに、向こう側の黒板にも、何かが刻まれてきた。
ずっと、向こうと同期し続けていた。
「だから、もういい」
ユウは黒板に両手をかけた。
ギイ、と鈍い音を立てて、黒板が少し浮く。
そのまま力を込めて、ゆっくりと前に倒した。
ガタン。
黒板が床に伏せた形で倒れる。表向きだった面が、今は下になり、チョークの数字は見えない。
ぱら、と粉が最後に一度だけ散った。
「おい、何やって」
砂原が声を上げる。
「黒板を倒すな。数字が見えなくなるだろ」
「見えなくていい」
ユウは、黒板から手を離した。
「これからは、書かない」
「は?」
「数字も、日付も、死体の数も、全部書かない。点呼もしない。祈りも、数字を数えない形に変える」
ユウは息を吸い、吐いた。
「数えるのをやめる」
その宣言は、思っていた以上に静かで、思っていた以上に重かった。
「お前、何言ってんだよ」
砂原は、顔をしかめて一歩前に出る。
「ここまでやってきたことを、全部やめるってのか」
「やってきたから、分かった」
ユウは、砂原の目を見た。
「数えた分だけ、向こうにも数字を与えてきた。こっちが一増やすたびに、向こうも一増やした。十三と十三がそろった。今、“十四”が生まれた。ここでまた書いたら、きっと向こうも十四になる」
「だから何だ。数字を止めたら、あいつらが増えるのをやめてくれると思うのか」
「少なくとも、“同じタイミングでは増えなくなる”」
ユウは、拳を握る。
「これは、こっちの問題だ。向こうのルールを全部止めることはできない。でも、こっちから歩みを合わせる必要もない」
結城が、静かに口を開いた。
「僕は、ユウに賛成だ」
「結城まで……」
「数字は、“観測した瞬間に形を持つ”」
結城は、少しだけ遠くを見る目をした。
「物理学でも、統計でも、それに似た話がいくらでもある。僕らが毎朝死体を数え、黒板に数字を書き、点呼で自分の名を数えてきたことが、結果として“向こうのルール”に組み込まれていたとしたら」
「書かないこと自体が、唯一の反抗になる」
田所が、結城の言葉を継いだ。
「数字を生まない。ラベルを貼らない。ここにいることを、“数”じゃなくて、“名もなき状態”で続けようとする」
「そんな曖昧な状態で、生き延びられると思うのか」
砂原は、拳を握り締める。
「数字を手放したら、自分たちの位置すら分からなくなる。残りの日数も、食料も、体力も、全部見えなくなるんだぞ」
「残りの食料なんて、とっくにない」
駒田が、乾いた笑いを漏らした。
「数えたってゼロ。数えなくてもゼロ。この点に関しては、あんま変わらないな」
「砂原」
沢村が、静かに肩に手を置く。
「ここまでお前の“管理”に頼ってきたのは事実だ。数字で世界を整理してくれたことには感謝してる。でも、今の数字は、もう整理じゃなくて“縛り”になってる」
「縛り……」
「十三と十三に揃った瞬間から、俺はずっと“誰がどっちに移るか”ばかり考えてた。数字が、最初に決めた約束を勝手に塗り替えていくのを見てた」
沢村は、一度目を閉じ、ゆっくりと開く。
「このまま同じように数え続けたら、きっと“十四と十四”が当たり前になる。だったら、一度ここで手を離すしかない」
「……結局、お前らは怖くなっただけだろ」
砂原は、悔しそうに笑った。
「数字を信じてきたくせに、数字が自分たちの都合を超えて動き始めた途端、逃げるのかよ」
「怖くなったのは事実だ」
結城は、あっさりと認める。
「怖くなっていい場面もある。これは、その一つだと思う」
「俺は……」
砂原は、黒板に伏せられた板を見た。
そこには、この数日間の記録が詰まっている。死体の数。祈りの回数。自分が守ろうとした秩序。
それを床に伏せたユウの背中に、怒りと羨望と諦めがごちゃ混ぜになって押し寄せる。
「……勝手にしろ」
しばらくの沈黙のあと、砂原は吐き捨てるように言った。
「その代わり、何かあっても数字のせいにはするな。数えるのをやめたのは、お前らだ」
「分かってる」
ユウは、小さくうなずいた。
「全部、こっちの選択だ」
◇
「じゃあ、“点呼の祈り”も形を変えないとね」
田所が、倒れた黒板のそばにしゃがみ込む。
「今まで通り名前を言って、隣に触れて、数字を数える形じゃ、どうしたって“向こう”が入り込んでくる」
「祈りまでやめろってわけじゃない」
北條が、少しほっとした顔をした。
「何もかも切り捨てたら、さすがに心が持たない」
「だから、数字の代わりに別のものを置く」
田所は、黒板の縁に手を置いた。
「言葉じゃない、歌だ」
「歌?」
三輪が首をかしげる。
「この状況でカラオケかよ」
「カラオケじゃない」
田所は笑う。
「歌詞のない歌。意味のない旋律。“数えられない音”で輪を作る」
彼は、軽く咳払いをして、低く鼻歌を歌い始めた。
言葉にならない音が、体育倉庫の中に広がる。
どこの国のものでもない。どの教科書にも載っていない。
ただその場限りの旋律。
北條が、その音にすぐ反応した。
祈りを乗せるように、別の高さの声を重ねる。
安っぽいメロディでも、ぼろぼろの喉でもない。ただ、今この瞬間だけの声だ。
「ほら」
田所は、輪の中を見回した。
「名前を言う代わりに、この声を隣に渡す。肩に触れてもいい。触りたくなければ、ただ聴いていればいい。どちらにせよ、“数字”はどこにも生まれない」
「歌なんて、久しぶりだな」
三輪が、小さな声で言う。
「合唱とか、いつ以来だろ」
「中学の合唱コンクールとか?」
御子柴が、かすかに笑った。
「賞とか取った?」
「取れなかった」
それでも、あのときは、歌の中に自分の居場所があった気がする。
数字じゃなくて、声の高さと、息の長さと、隣の肩の震えで繋がっている時間が。
「……やってみよう」
沢村が、決断するようにうなずいた。
「点呼の時間だけ、歌う。数字を言わない。名前も数えない。誰が一番でも、何番目でもない輪を作る」
「黒板は?」
シオリが問う。
「このまま」
ユウが答える前に、田所がそっと黒板を抱き上げた。
床に伏せた板を、胸の前で立てる。
「表は下向きのまま。裏面だけこっちを向けておく」
「それじゃ、何も書けないじゃない」
「書かないって決めたんだから、それでいい」
田所は、黒板を抱いたまま輪の外側に立った。
「今日からこいつは、“記録板”じゃなくて、“ただの板”だ。歌の反響板。祈りの背もたれ。数字とは関係ない木の塊」
「……元体育倉庫の黒板の皆さんが聞いたら、泣きそうな扱いだな」
御子柴が、小さく肩をすくめる。
「いいじゃない」
北條が、黒板の端にそっと手を添えた。
「こんな形で使われてる黒板なんて、世界中探してもここだけだよ」
◇
楢崎は、その輪から少し離れた場所で、自分のノートを広げていた。
ページの隅には、小さな文字でびっしりと数字が並んでいる。
死体の体温。日ごとの経過。呼吸の回数。脈拍。陣痛の間隔。
最後のページには――
出生時刻:不明(夜明け前)
体温:三十六度前後
泣き声:強い
母体状態:極度の疲労、意識は明瞭
「……ここまでだな」
小さくつぶやいてから、楢崎はペンを閉じた。
ノートをぱたりと折り畳む。
数字は、医者としての彼の武器だった。
症状を分類し、優先順位をつけ、冷静さを保つための柱。
その柱もまた、今は“向こう側”に利用されているかもしれない。
それでも、生まれた命の初期状態だけは、どうしても書き残したかった。
ここまで来てしまったら、もうこの先は数字に頼らないしかない。
「最後のデータは、これでいい」
楢崎は、ノートを胸ポケットにしまった。
「あとは、あの子自身が、自分の数を決める」
◇
夜が明け始める頃、倉庫の中に、かすかな光が差し込んだ。
外はまだ曇っているらしい。冷たい灰色の明かりが、ひび割れの隙間から床に落ちる。
「……朝だ」
三輪が、ささやく。
いつもなら、この時間には“点呼の祈り”が始まっていた。
輪になり、名前を言い、数字を数える。
黒板にその日の日付と数字を書き足す。
今日、そのどれもが行われない。
「今日は、誰の名も呼ばない」
沢村が、改めて宣言する。
「誰も、自分の名前を言わない。数字も言わない」
「……祈りは?」
北條が問う。
「歌だけ。数字を含まない声だけ」
北條は、小さくうなずく。
毛布の向こうでは、藤咲が疲れ切った顔で眠っていた。その腕の中で、小さな塊が、まだ不器用な呼吸を繰り返している。
「名前、どうする?」
シオリが、毛布の端から顔を出して聞く。
「生まれたばかりのあの子。何て呼ぶ?」
「今は、呼ばない」
ユウは、意外なほどすぐに答えた。
「呼び名を決めるのは、ここを出てからがいい。ここの数字に、名前を巻き込まないためにも」
「……分かった」
シオリは、それ以上何も言わなかった。
輪が作られる。
この数日と違うのは、誰も黒板のほうを見ないこと。
誰も、「何日目だ」とか「死体が何体だ」とか口にしないこと。
「歌うぞ」
田所が、黒板を抱いたまま低く言った。
「昨日の続きを」
鼻歌から始まった旋律に、北條の祈るような声が重なる。
それに御子柴が適当にハモり、三輪が途中で音を外し、シオリが笑いながら改めて音を探して重ねる。
歌は上手くない。
上手くなろうともしない。
でも、そこには誰も“順番”がない。
「一番」とか「二番」とか「ソプラノ」とか「バス」とか、ラベルがない。
ただ、ここにいる全員が、“自分の声”を持っているという事実だけがある。
黒板は、裏側をこちらに向けたまま、静かにその音を跳ね返していた。
数字の代わりに、音を吸い込んで、また返していた。
◇
歌がやみ、輪がほどける。
それでも、誰一人として、「じゃあ点呼を」とは言わなかった。
いつもなら、「じゃあ死体の確認だ」と誰かが言うタイミングでもある。
今日は、その言葉も出ない。
「……袋を、開けるか」
最初に口を開いたのは駒田だった。
「今まで、ジッパーを閉じたまま“数”として見てきた。そろそろ、“数じゃない何か”として見てもいいだろ」
「中を見るのは、きついぞ」
三輪が言う。
「だから今まで、わざと見ないようにしてたのに」
「それでも、見ないと進めないこともある」
楢崎が、死体袋の列に近づく。
十三体の袋が、まだひとつも動いていない。
ジッパーには、誰の指紋も新しくついていない。
「俺も手伝う」
砂原が前に出る。
「管理してきたのは俺だ。最後くらい、見届ける」
「……ありがとう」
ユウは、小さく言う。
砂原は、あからさまに顔をそらしたが、その頬は少しだけ赤かった。
一体ずつ、袋のジッパーが開かれていく。
中から現れるのは、どれも“知っている顔”だった。
左右反転した痣。
こっちと少し違う骨格。
わずかに違う髪の癖。
それぞれが、こっちの誰かの“向こう側”だということは、もう分かっている。
けれど、今はもう、それを数字として見ることができなくなっていた。
「……彫像みたいだ」
三輪が、誰ともなく言う。
死体たちは、どれも“動く可能性”を感じさせない。
温度が上がり続けていたはずなのに、今はひんやりとしているように見える。
あれほど落ちていたチョークの粉も、袋の内側からはもうこぼれてこない。
顔はある。
でも、その表情には、もう「こちら」に向いたラベルは乗っていない。
誰の何番目でもない、“顔のない彫像”。
「向こうも、書くのをやめたのかもな」
田所が、小さく笑った。
「こっちが黒板を伏せたのを見て、“あ、やめたんだ”って」
「だったらいいな」
御子柴が、彫像たちから目を背けながら言う。
「向こうの俺にも、数字以外の何かが残ってるなら、まだマシだ」
◇
「光が、ちょっと増えた」
そのとき、片桐が瓦礫のほうを見上げて呟いた。
さっきまで薄暗かった入り口の隙間から、さっきより強い灰色の光が漏れている。
「雲が切れてきたのか」
沢村が、目を細めてその方向を見る。
「風向きも変わった気がする」
「今だな」
片桐は、もう壊れたライトを握りしめながらも、瓦礫の列に近づいた。
「本当はライトを照らして“外”を見たかったけど、もう手段がない。だったら、光のほうにこっちから近づくしかない」
最初にこの瓦礫を崩そうとしたときよりも、山はわずかに低くなっていた。ひび割れも増えている。崩落のあとも少し変化しているのだろう。
「上に登って、外側に向かって手を伸ばす。穴を広げる。外の光を引っ張る」
「転ぶなよ」
砂原が、半分呆れたように言う。
「ここで足折ったら、笑えないぞ」
「笑う余力があるのはいいことだ」
片桐は、苦笑しながら瓦礫をよじ登り始めた。
手をかけるたびに、ザラザラと砂が落ちる。
足を乗せるたびに、小石が転がる。
それでも、一歩一歩、崩落の山を這い上がっていく。
頭が、瓦礫のてっぺんを越えた。
ひやりとした風が、頬を撫でる。
「……おお」
片桐の口から、小さな声が漏れた。
見えている光景がどんなものか、下からでは分からない。
ただ、その声だけで、“完全な絶望”ではないと分かった。
「空、見えるか」
沢村が叫ぶ。
「見える」
片桐は、振り向こうとしてバランスを崩し、慌てて瓦礫にしがみついた。
「青くはないけどな。灰色。でも、天井じゃない」
天井ではない。
屋根ではない。
コンクリートの裏側でもない。
外だ。
「手を伸ばせ」
駒田が、下から支えるように言った。
「光を呼べ。ここまで持ってこい」
片桐は、瓦礫の隙間に腕を突っ込んだ。
冷たい空気が、指のあいだをすり抜ける。
外の風。
外の匂い。
外の寒さ。
体育倉庫の中の冷気と、どこが違うのか言葉にはできない。
でも、確かに“外”だった。
「……こじ開けるぞ!」
片桐は、体重をかけて石を押した。
ゴリ、と鈍い音がする。
一つ、二つ。
積み重なっていたコンクリートの塊が、ゆっくりと転がり落ちた。
隙間が広がる。
外光が、一気に倉庫の中に流れ込んできた。
薄暗かった体育倉庫が、灰色に洗われる。
死体袋の列。
倒れた黒板。
毛布の山。
十三人のやせた影。
全部が、初めて“外の光”で照らされる。
「……見える」
三輪が、目を細めた。
「外の色だ」
「色があるのか、あっちに」
御子柴が、ぽつりと言う。
「灰色でも、数字よりはマシだな」
◇
「……ねえ」
外光に目を細めながら、三輪がユウの袖を引いた。
「さっきから、ずっと耳を澄ませてたんだけどさ」
「何を」
「あの声」
三輪は、体育倉庫の天井を見上げる。
「“余剰の声”。点呼の最後に、いつもお前の名前を呼んでたやつ」
ユウの喉が、少しだけひりついた。
この数日間、あの声は当たり前のようにそこにあった。
自分の名を、もう一度重ねる声。
点呼の輪にいないはずなのに、確かにその場にいた余分な一人。
「……どうだった」
ユウは、聞きたくないような、聞きたいような気持ちを押し込めて問う。
「今日、歌ってたとき」
「いなかった」
三輪は、きっぱりと言った。
「どこを探しても、いなかった。歌の外にも、歌の隙間にも。数字のモノローグみたいな声も、もう聞こえない」
「……そうか」
点呼をやめたからか。
それとも、十四が生まれたからか。
理由は分からない。
でも、確かに“余分な声”は、どこかへ行ってしまったらしい。
「その代わりさ」
三輪は、少し照れくさそうに笑った。
「歌ってるとき、お前の声だけ、やたら分かりやすかった」
「なんだよそれ」
「“あ、高城の声だ”って、すぐ分かった。変に裏返るし」
「余計なお世話だ」
軽口を叩き合いながらも、胸の奥に暖かいものが広がる。
数字の列から自分の位置を探すのではなく。
誰かが、自分の声だけをちゃんと聞き分けてくれていたという事実。
それだけで、数字以外のところに“自分”がいる気がした。
◇
「行くぞ」
瓦礫の上から、片桐の声がした。
「穴、通れるくらいには広がった。腹の大きい人間以外なら、ぎりぎり通れる」
「腹の大きい人間は、しばらくそこで休んでてもらう」
楢崎が、藤咲の毛布を直しながら言った。
「俺と、何人かは残る。新生児をこの温度の外に出すのは危険だ。まずは外の状況を見てからだ」
「じゃあ、先発隊と残留組に分かれるってわけだな」
砂原が、瓦礫のほうを見上げる。
「何人かが外を確認して、戻れるなら全員で出る。戻れないなら……」
「戻れないなら、そのとき考える」
沢村が区切った。
「今、ここで最悪の予想に全部ラベルを貼る必要はない」
「ラベル、やめるんだもんね」
シオリが、小さく笑った。
「数字も、最悪のパターンも。決めつけて名前を付けるの、今日はお休み」
「……そういうことだ」
ユウは、瓦礫の穴を見つめた。
その先に何があるのか。
生き物の気配があるのか。
町が残っているのか。
全部分からない。
それでも、その穴の向こうには、少なくとも“別の空気”がある。
「ユウ」
シオリが、少しだけ真剣な顔で呼んだ。
「さっき、“自分の名前を呼ばない”って言ってたよね」
「ああ」
「心の中でも?」
ユウは、一瞬だけ言葉に詰まった。
これまで、自分の名を何度も書いてきた。
点呼のたびに、声に出して名乗ってきた。
余剰の声にも、何度も呼ばれてきた。
ここに閉じ込められてから、“高城ユウ”というラベルは、数字とセットで自分を縛るタグになっていた。
「……呼ばない」
ユウは、ゆっくりと言った。
「せめて、ここを出るまでは。自分で自分の名前を、心の中でも呼ばない」
「それで、消えちゃわない?」
「消えない」
即答できたのは、自信があったからではない。
ただ、そう言わないと足がすくんでしまいそうだったからだ。
「誰かが、俺を呼べばいい。俺は、自分以外の誰かの声で、自分の位置を確かめる」
「うわ、めちゃくちゃ重いこと言うじゃん」
三輪が、苦笑した。
「でも、ちょっとカッコいいな、それ」
「やめろ、変な褒め方」
それでも、不思議と足は軽かった。
◇
先発隊に選ばれたのは、沢村、砂原、結城、片桐、御子柴、そしてユウだった。
残るのは、楢崎と藤咲、北條、田所、三輪、シオリ、それから駒田。
「抜け目ないな」
御子柴が、残るほうの顔ぶれを見て言う。
「医者と産後の母親と子どもと、祈り担当と、数字担当と、力仕事担当と、ビビり担当」
「最後のラベル、余計じゃない?」
三輪が、口を尖らせた。
「どうせラベル貼るなら、“ここを守る組”とかにしてよ」
「じゃあ、それで」
沢村が笑う。
「先発隊は、“穴を見る組”。残るみんなは“ここを守る組”。どっちが生き残るにせよ、それぞれの仕事をする」
「戻ってこいよ」
シオリが、ユウの袖をぎゅっと掴んだ。
「ちゃんと、“外の色”教えてもらわないと困るからね」
「分かった」
ユウは、彼女の手をそっとほどいた。
「すぐ、戻る」
瓦礫の山に手をかける。
一歩、二歩。
足元に注意しながら、穴のほうへ進む。
穴は、思っていたよりも狭かった。
大人一人が横向きでぎりぎり通れるくらい。
片桐が、先に身体を滑り込ませる。
「外、まだ崩れてる。気をつけろ」
その声に従いながら、ユウも穴を抜ける。
肩が石に擦れる。
腕にざらざらとした感触が走る。
息を詰めて、身体を押し出す。
次の瞬間、視界が開けた。
「……」
思わず、言葉を失った。
外は、世界が終わったあとのような光景だった。
体育館だった場所の屋根は、半分以上が落ちていた。鉄骨がねじれ、コンクリートの塊があちこちに転がっている。
校庭にあったはずの遊具は、土に半分埋もれ、フェンスは何枚か折れて斜めに突き刺さっていた。
遠くに見える町並みも、ところどころで建物が傾いている。
煙は出ていない。火の気配もない。
ただ、全体が静かで、色といえば灰色と、ところどころに残った看板の色だけ。
風が、冷たく頬を打った。
体育倉庫の中と同じ“寒さ”なのに、全然違う。
動きのある寒さ。
流れていく寒さ。
「……これが、“外”かよ」
御子柴が、乾いた声で言った。
「思ってたより、派手な終わり方じゃないな」
「派手じゃないほうが、まだマシだ」
結城が、小さく言う。
「少なくとも、即死の熱も、凍結の白もない」
「人影は」
沢村が、周囲を見回す。
「いないな」
片桐が、肩で息をしながら言った。
「少なくとも、この学校の周りには。車も止まってないし、煙もない。動物の気配も薄い」
「……すれ違ったのかもな」
砂原が、ぽつりと言う。
「俺たちが数え続けてる間に、ここにいた奴らは別のどこかに逃げて。数字がルールを占領している間に、“生きてる世界”は別のルートを通っていった」
「それでも」
沢村は、体育倉庫のほうを振り返った。
穴の向こうに、まだ中の様子は見えない。
「ここから、歩き出せるなら、それでいい」
「戻るか」
片桐が、穴のほうを顎で示す。
「一回、状況報告だ。まだ“出るか出ないか”を全員で決めてない」
「戻ったら……」
ユウは、一瞬だけ迷ってから、口を開いた。
「戻ったら、“出よう”って言うつもりだ。ここにとどまって数字にすがるより、外で“数えなくてもいい世界”を探すほうがマシだと思う」
「見つかるといいな」
御子柴が言った。
「そんな世界」
「探すしかないだろ」
砂原が、わずかに笑った。
「数字に裏切られた連中のやることなんて、そんなもんだ」
◇
穴を通って体育倉庫に戻ると、中ではまだ歌の余韻が漂っていた。
藤咲は、浅い眠りの中で、腕の中の小さな塊を守るように丸くなっている。
北條は、そのそばで小さな声で祈りを続けていた。
「どうだった」
シオリが、真っ先に駆け寄ってくる。
「空、あった?」
「あった」
ユウは、短く答える。
「灰色だけど、天井じゃなかった。風も、ちゃんと動いてた。町は……かなり崩れてる。でも、歩けそうだ」
「じゃあ」
三輪の目が少しだけ輝く。
「行ける?」
「行ける」
沢村が、全員の顔をゆっくりと見回す。
「危険と希望、両方ある。ここに残るか、外に出るか。どっちにしても、“数えない選択”は続ける。外がどんな世界でも、数字で自分たちを縛らない」
「そもそも、外に出た時点で、“生きてるのが何人か”なんて数える意味ないしね」
田所が、黒板を抱き直す。
「今日からこいつは、外の風にも当たるのか」
「重いなら、置いていってもいいぞ」
御子柴が笑う。
「ただの板なんだろ」
「ただの板だからこそ、持っていきたい」
田所は、黒板の縁を軽く叩いた。
「数字に使うためじゃない。風よけと、日よけと、たまに座るベンチになる」
「贅沢なベンチだな」
三輪が、少しだけ笑った。
◇
出口に向かう列ができる。
先発隊だった六人に加え、楢崎が藤咲と子どもを慎重に抱き上げ、田所が黒板を抱え、北條とシオリと駒田、三輪が続く。
「本当に行くのね」
藤咲が、まだ少しふらつく息の中で言う。
「この子、寒くない?」
「寒い。だから急ごう」
楢崎は、きっぱりと答えた。
「ここにいても寒いのは同じだ。外のほうが、まだ動ける分だけマシだ」
「……そっか」
藤咲は、腕の中の小さな頭を見る。
まだ名前もない。
十四という数字にも組み込まれていない。
ただ、生まれたばかりの“誰か”。
「こっちの世界、見せてあげないとね」
彼女は、小さく笑った。
「十三と十三の倉庫だけじゃなくて」
「そうだな」
ユウは、出口のほうを見据えた。
瓦礫の穴から、灰色の光が差し込んでいる。
その向こうにあるのが、“生十四”の世界なのか。
それとも、“数字を拒否した幽霊の群れ”が彷徨う世界なのか。
答えは、今はまだ出せない。
けれど、一つだけ決めていることがある。
出口をくぐるとき、振り返らない。
伏せられた黒板も。
床に並んだ十三の彫像も。
毎朝の点呼の輪も。
あれ全部が、自分たちの「生」の全てではないと信じるために。
「行こう」
沢村の一言で、列が動き出す。
一人ずつ、瓦礫の穴に身体を滑り込ませていく。
肩が石に擦れ、ひざが砂をかく。
それでも、誰も数字を数えない。
何人通った、とか。
あと何人残っている、とか。
誰も、そんなことを口にしない。
ユウの番が来る。
穴の手前で、一瞬だけ立ち止まる。
背中に、体育倉庫の空気を感じる。
伏せられた黒板の気配も、彫像たちの沈黙も、まだそこにある。
振り返らない。
ここで数字を止めた朝が、自分たちにとっての「生」の証明になると信じるために。
ユウは、穴の中へ身を滑り込ませた。
かすかな眩しさのあとに、冷たい風が一気に頬を撫でる。
体育倉庫の中と外を分けていた境界線を、身体が越えた。
外に出たその瞬間も――
誰も、「何人目が出た」とは言わなかった。
ただ、風の冷たさと、空の広さと、瓦礫の下に置いてきた“数えなかった朝”だけが、それぞれの胸の中で、静かに鳴り続けていた。




