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死体を数える部屋―地震で崩壊した避難所。13人が閉じ込められる。翌朝、死体が一つ増えていた。  作者: 妙原奇天


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第11話「数えることをやめる」

 夜明け前の体育倉庫は、いつもよりも静かだった。


 ひび割れた壁の向こうから聞こえていた金属音も止み、風の音さえ遠い。倉庫の中で鳴っているのは、浅く早い息と、時おり漏れるうめき声だけだ。


「……っ、は……!」


 藤咲が、汗だくになった顔をゆがめ、毛布を握りしめる。楢崎がそのそばで、タオルと水と、わずかな布を手際よく扱っていた。


「いい、いい。来てる。呼吸を合わせて。吸って、吐いて。波に乗る」


「……乗れない、よ……!」


「乗れる。ここまで来たんだ。あと少しだ」


 楢崎の声は限界までやせているのに、不思議と揺れない。彼の手は震えていたが、その震えを知っているのは、自分自身だけだろう。


 体育マットの周りには、毛布を立てて作った即席の壁。その外側で、ほかの連中が息を殺している。誰もさわぎはしない。ただ、耳をふさぐ勇気もない。


 十三と十三がそろった世界で、生まれようとしているのは“十四番目”だ。


「……くる」


 藤咲が、途切れ途切れの息の中で言った。


「次くる……!」


「来い」


 楢崎が、短く答える。


「ここに来い」


 次の瞬間、空気そのものがきしんだような気がした。


 低く押し殺した叫びが、体育倉庫の天井まで届く。毛布の中の様子は見えない。けれど、そこに集まっている力のすべてが、音と空気で伝わってきた。


 しばらくの沈黙。


 それから――


 か細く、それでも確かに、それは鳴り始めた。


「……おぎゃ……」


 かすれた、小さな声。


 まだこの世に慣れていない喉が、必死に空気を掴もうとしているみたいな泣き声。


 一度鳴ったそれは、すぐに形を変えて大きくなった。


「おぎゃあああああ!」


 泣き声が、闇を貫いた。


 ひび割れた壁。黒い死体袋の列。粉だらけの黒板。冷え切ったマット。固まっていた空気全部に、その声が叩きつけられる。


 それは、「十四」という数字よりも先に、“ここに新しい何かが生まれた”という宣言だった。


「……産声だ」


 三輪が、誰にともなくつぶやく。


 口の中が乾き切っていたのに、その言葉だけは勝手に漏れた。


「ほんとに……生まれたんだ」


 毛布の壁の外側からも、安堵とも混乱ともつかない息が漏れる。


 御子柴が、床に腰を落とした。


「マジかよ……こんなとこで」


「ほら」


 楢崎の少し掠れた声。


「泣け。もっと泣け。生きてるだけで偉いんだ、お前は」


 また泣き声が強くなる。小さな肺が、体育倉庫という箱の空気を掻き集めている。


 十三と十三で埋まっていた世界の真ん中に、数えられない何かが割り込んできた。


 ルールが、ほんの少しだけ、音を立ててひび割れる。


     ◇


「……十四、だな」


 誰かが言いかけた言葉を、ユウは喉の奥で飲み込んだ。


 言葉にした瞬間、数字になる。


 数字になった瞬間、あの黒板に書かれてしまう。

 書かれた瞬間、向こう側にも“十四”が生まれる。


 そんな気がした。


「ユウ」


 沢村が、黒板の前で立ち尽くしているユウの肩を軽く叩いた。


「書くか」


 黒板には、まだ「十三‖十三」が残っている。


 死体十三。生者十三。

 さっきまでは、それがこの箱のすべてだった。


 今は違う。


 どこかで泣いている、その声が。“十四”という可能性を、この倉庫にねじ込んできた。


「……生十四」


 チョークを握りながら、ユウは小さくつぶやいた。


 ここにいる十三人と、毛布の向こうの一人生まれたばかり。

 生きている存在の数は、十四になる。


 黒板の上の端に、大きく“生十四”と書こうとして――手が止まった。


 チョークの先が、何も書かれていない黒板の空白を削るように沈み込む。白い粉が、かすかに落ちた。


 書いた瞬間、向こう側にも“生十四”が生まれる気がする。


 十三‖十三が、十四‖十四になる。

 ぴったりそろった瞬間、また“同数への行進”が始まる。


 せっかく崩れかけたバランスが、もう一度固まってしまう。


「ユウ?」


 シオリが、不安そうに覗き込む。


「書かないの?」


「……書きたくない」


 ユウは、チョークを握った手を下ろした。


「書いたら、また元に戻る気がする。十四も、向こう側に吸われる」


「でも、記録は」


「記録なんかいらない」


 自分でも驚くくらい強い声が出た。


 黒板は、ずっとここにあった。

 崩落で閉じ込められてからの日数も、死体の数も、祈りの形も、全部この板が“記録”してきた。


 そのたびに、向こう側の黒板にも、何かが刻まれてきた。


 ずっと、向こうと同期し続けていた。


「だから、もういい」


 ユウは黒板に両手をかけた。


 ギイ、と鈍い音を立てて、黒板が少し浮く。

 そのまま力を込めて、ゆっくりと前に倒した。


 ガタン。


 黒板が床に伏せた形で倒れる。表向きだった面が、今は下になり、チョークの数字は見えない。


 ぱら、と粉が最後に一度だけ散った。


「おい、何やって」


 砂原が声を上げる。


「黒板を倒すな。数字が見えなくなるだろ」


「見えなくていい」


 ユウは、黒板から手を離した。


「これからは、書かない」


「は?」


「数字も、日付も、死体の数も、全部書かない。点呼もしない。祈りも、数字を数えない形に変える」


 ユウは息を吸い、吐いた。


「数えるのをやめる」


 その宣言は、思っていた以上に静かで、思っていた以上に重かった。


「お前、何言ってんだよ」


 砂原は、顔をしかめて一歩前に出る。


「ここまでやってきたことを、全部やめるってのか」


「やってきたから、分かった」


 ユウは、砂原の目を見た。


「数えた分だけ、向こうにも数字を与えてきた。こっちが一増やすたびに、向こうも一増やした。十三と十三がそろった。今、“十四”が生まれた。ここでまた書いたら、きっと向こうも十四になる」


「だから何だ。数字を止めたら、あいつらが増えるのをやめてくれると思うのか」


「少なくとも、“同じタイミングでは増えなくなる”」


 ユウは、拳を握る。


「これは、こっちの問題だ。向こうのルールを全部止めることはできない。でも、こっちから歩みを合わせる必要もない」


 結城が、静かに口を開いた。


「僕は、ユウに賛成だ」


「結城まで……」


「数字は、“観測した瞬間に形を持つ”」


 結城は、少しだけ遠くを見る目をした。


「物理学でも、統計でも、それに似た話がいくらでもある。僕らが毎朝死体を数え、黒板に数字を書き、点呼で自分の名を数えてきたことが、結果として“向こうのルール”に組み込まれていたとしたら」


「書かないこと自体が、唯一の反抗になる」


 田所が、結城の言葉を継いだ。


「数字を生まない。ラベルを貼らない。ここにいることを、“数”じゃなくて、“名もなき状態”で続けようとする」


「そんな曖昧な状態で、生き延びられると思うのか」


 砂原は、拳を握り締める。


「数字を手放したら、自分たちの位置すら分からなくなる。残りの日数も、食料も、体力も、全部見えなくなるんだぞ」


「残りの食料なんて、とっくにない」


 駒田が、乾いた笑いを漏らした。


「数えたってゼロ。数えなくてもゼロ。この点に関しては、あんま変わらないな」


「砂原」


 沢村が、静かに肩に手を置く。


「ここまでお前の“管理”に頼ってきたのは事実だ。数字で世界を整理してくれたことには感謝してる。でも、今の数字は、もう整理じゃなくて“縛り”になってる」


「縛り……」


「十三と十三に揃った瞬間から、俺はずっと“誰がどっちに移るか”ばかり考えてた。数字が、最初に決めた約束を勝手に塗り替えていくのを見てた」


 沢村は、一度目を閉じ、ゆっくりと開く。


「このまま同じように数え続けたら、きっと“十四と十四”が当たり前になる。だったら、一度ここで手を離すしかない」


「……結局、お前らは怖くなっただけだろ」


 砂原は、悔しそうに笑った。


「数字を信じてきたくせに、数字が自分たちの都合を超えて動き始めた途端、逃げるのかよ」


「怖くなったのは事実だ」


 結城は、あっさりと認める。


「怖くなっていい場面もある。これは、その一つだと思う」


「俺は……」


 砂原は、黒板に伏せられた板を見た。


 そこには、この数日間の記録が詰まっている。死体の数。祈りの回数。自分が守ろうとした秩序。


 それを床に伏せたユウの背中に、怒りと羨望と諦めがごちゃ混ぜになって押し寄せる。


「……勝手にしろ」


 しばらくの沈黙のあと、砂原は吐き捨てるように言った。


「その代わり、何かあっても数字のせいにはするな。数えるのをやめたのは、お前らだ」


「分かってる」


 ユウは、小さくうなずいた。


「全部、こっちの選択だ」


     ◇


「じゃあ、“点呼の祈り”も形を変えないとね」


 田所が、倒れた黒板のそばにしゃがみ込む。


「今まで通り名前を言って、隣に触れて、数字を数える形じゃ、どうしたって“向こう”が入り込んでくる」


「祈りまでやめろってわけじゃない」


 北條が、少しほっとした顔をした。


「何もかも切り捨てたら、さすがに心が持たない」


「だから、数字の代わりに別のものを置く」


 田所は、黒板の縁に手を置いた。


「言葉じゃない、歌だ」


「歌?」


 三輪が首をかしげる。


「この状況でカラオケかよ」


「カラオケじゃない」


 田所は笑う。


「歌詞のない歌。意味のない旋律。“数えられない音”で輪を作る」


 彼は、軽く咳払いをして、低く鼻歌を歌い始めた。


 言葉にならない音が、体育倉庫の中に広がる。

 どこの国のものでもない。どの教科書にも載っていない。

 ただその場限りの旋律。


 北條が、その音にすぐ反応した。


 祈りを乗せるように、別の高さの声を重ねる。

 安っぽいメロディでも、ぼろぼろの喉でもない。ただ、今この瞬間だけの声だ。


「ほら」


 田所は、輪の中を見回した。


「名前を言う代わりに、この声を隣に渡す。肩に触れてもいい。触りたくなければ、ただ聴いていればいい。どちらにせよ、“数字”はどこにも生まれない」


「歌なんて、久しぶりだな」


 三輪が、小さな声で言う。


「合唱とか、いつ以来だろ」


「中学の合唱コンクールとか?」


 御子柴が、かすかに笑った。


「賞とか取った?」


「取れなかった」


 それでも、あのときは、歌の中に自分の居場所があった気がする。


 数字じゃなくて、声の高さと、息の長さと、隣の肩の震えで繋がっている時間が。


「……やってみよう」


 沢村が、決断するようにうなずいた。


「点呼の時間だけ、歌う。数字を言わない。名前も数えない。誰が一番でも、何番目でもない輪を作る」


「黒板は?」


 シオリが問う。


「このまま」


 ユウが答える前に、田所がそっと黒板を抱き上げた。


 床に伏せた板を、胸の前で立てる。


「表は下向きのまま。裏面だけこっちを向けておく」


「それじゃ、何も書けないじゃない」


「書かないって決めたんだから、それでいい」


 田所は、黒板を抱いたまま輪の外側に立った。


「今日からこいつは、“記録板”じゃなくて、“ただの板”だ。歌の反響板。祈りの背もたれ。数字とは関係ない木の塊」


「……元体育倉庫の黒板の皆さんが聞いたら、泣きそうな扱いだな」


 御子柴が、小さく肩をすくめる。


「いいじゃない」


 北條が、黒板の端にそっと手を添えた。


「こんな形で使われてる黒板なんて、世界中探してもここだけだよ」


     ◇


 楢崎は、その輪から少し離れた場所で、自分のノートを広げていた。


 ページの隅には、小さな文字でびっしりと数字が並んでいる。


 死体の体温。日ごとの経過。呼吸の回数。脈拍。陣痛の間隔。


 最後のページには――


 出生時刻:不明(夜明け前)

 体温:三十六度前後

 泣き声:強い

 母体状態:極度の疲労、意識は明瞭


「……ここまでだな」


 小さくつぶやいてから、楢崎はペンを閉じた。


 ノートをぱたりと折り畳む。


 数字は、医者としての彼の武器だった。

 症状を分類し、優先順位をつけ、冷静さを保つための柱。


 その柱もまた、今は“向こう側”に利用されているかもしれない。


 それでも、生まれた命の初期状態だけは、どうしても書き残したかった。


 ここまで来てしまったら、もうこの先は数字に頼らないしかない。


「最後のデータは、これでいい」


 楢崎は、ノートを胸ポケットにしまった。


「あとは、あの子自身が、自分の数を決める」


     ◇


 夜が明け始める頃、倉庫の中に、かすかな光が差し込んだ。


 外はまだ曇っているらしい。冷たい灰色の明かりが、ひび割れの隙間から床に落ちる。


「……朝だ」


 三輪が、ささやく。


 いつもなら、この時間には“点呼の祈り”が始まっていた。


 輪になり、名前を言い、数字を数える。

 黒板にその日の日付と数字を書き足す。


 今日、そのどれもが行われない。


「今日は、誰の名も呼ばない」


 沢村が、改めて宣言する。


「誰も、自分の名前を言わない。数字も言わない」


「……祈りは?」


 北條が問う。


「歌だけ。数字を含まない声だけ」


 北條は、小さくうなずく。


 毛布の向こうでは、藤咲が疲れ切った顔で眠っていた。その腕の中で、小さな塊が、まだ不器用な呼吸を繰り返している。


「名前、どうする?」


 シオリが、毛布の端から顔を出して聞く。


「生まれたばかりのあの子。何て呼ぶ?」


「今は、呼ばない」


 ユウは、意外なほどすぐに答えた。


「呼び名を決めるのは、ここを出てからがいい。ここの数字に、名前を巻き込まないためにも」


「……分かった」


 シオリは、それ以上何も言わなかった。


 輪が作られる。


 この数日と違うのは、誰も黒板のほうを見ないこと。

 誰も、「何日目だ」とか「死体が何体だ」とか口にしないこと。


「歌うぞ」


 田所が、黒板を抱いたまま低く言った。


「昨日の続きを」


 鼻歌から始まった旋律に、北條の祈るような声が重なる。

 それに御子柴が適当にハモり、三輪が途中で音を外し、シオリが笑いながら改めて音を探して重ねる。


 歌は上手くない。

 上手くなろうともしない。


 でも、そこには誰も“順番”がない。

 「一番」とか「二番」とか「ソプラノ」とか「バス」とか、ラベルがない。


 ただ、ここにいる全員が、“自分の声”を持っているという事実だけがある。


 黒板は、裏側をこちらに向けたまま、静かにその音を跳ね返していた。


 数字の代わりに、音を吸い込んで、また返していた。


     ◇


 歌がやみ、輪がほどける。


 それでも、誰一人として、「じゃあ点呼を」とは言わなかった。


 いつもなら、「じゃあ死体の確認だ」と誰かが言うタイミングでもある。


 今日は、その言葉も出ない。


「……袋を、開けるか」


 最初に口を開いたのは駒田だった。


「今まで、ジッパーを閉じたまま“数”として見てきた。そろそろ、“数じゃない何か”として見てもいいだろ」


「中を見るのは、きついぞ」


 三輪が言う。


「だから今まで、わざと見ないようにしてたのに」


「それでも、見ないと進めないこともある」


 楢崎が、死体袋の列に近づく。


 十三体の袋が、まだひとつも動いていない。

 ジッパーには、誰の指紋も新しくついていない。


「俺も手伝う」


 砂原が前に出る。


「管理してきたのは俺だ。最後くらい、見届ける」


「……ありがとう」


 ユウは、小さく言う。


 砂原は、あからさまに顔をそらしたが、その頬は少しだけ赤かった。


 一体ずつ、袋のジッパーが開かれていく。


 中から現れるのは、どれも“知っている顔”だった。


 左右反転した痣。

 こっちと少し違う骨格。

 わずかに違う髪の癖。


 それぞれが、こっちの誰かの“向こう側”だということは、もう分かっている。


 けれど、今はもう、それを数字として見ることができなくなっていた。


「……彫像みたいだ」


 三輪が、誰ともなく言う。


 死体たちは、どれも“動く可能性”を感じさせない。


 温度が上がり続けていたはずなのに、今はひんやりとしているように見える。

 あれほど落ちていたチョークの粉も、袋の内側からはもうこぼれてこない。


 顔はある。

 でも、その表情には、もう「こちら」に向いたラベルは乗っていない。


 誰の何番目でもない、“顔のない彫像”。


「向こうも、書くのをやめたのかもな」


 田所が、小さく笑った。


「こっちが黒板を伏せたのを見て、“あ、やめたんだ”って」


「だったらいいな」


 御子柴が、彫像たちから目を背けながら言う。


「向こうの俺にも、数字以外の何かが残ってるなら、まだマシだ」


     ◇


「光が、ちょっと増えた」


 そのとき、片桐が瓦礫のほうを見上げて呟いた。


 さっきまで薄暗かった入り口の隙間から、さっきより強い灰色の光が漏れている。


「雲が切れてきたのか」


 沢村が、目を細めてその方向を見る。


「風向きも変わった気がする」


「今だな」


 片桐は、もう壊れたライトを握りしめながらも、瓦礫の列に近づいた。


「本当はライトを照らして“外”を見たかったけど、もう手段がない。だったら、光のほうにこっちから近づくしかない」


 最初にこの瓦礫を崩そうとしたときよりも、山はわずかに低くなっていた。ひび割れも増えている。崩落のあとも少し変化しているのだろう。


「上に登って、外側に向かって手を伸ばす。穴を広げる。外の光を引っ張る」


「転ぶなよ」


 砂原が、半分呆れたように言う。


「ここで足折ったら、笑えないぞ」


「笑う余力があるのはいいことだ」


 片桐は、苦笑しながら瓦礫をよじ登り始めた。


 手をかけるたびに、ザラザラと砂が落ちる。

 足を乗せるたびに、小石が転がる。

 それでも、一歩一歩、崩落の山を這い上がっていく。


 頭が、瓦礫のてっぺんを越えた。


 ひやりとした風が、頬を撫でる。


「……おお」


 片桐の口から、小さな声が漏れた。


 見えている光景がどんなものか、下からでは分からない。

 ただ、その声だけで、“完全な絶望”ではないと分かった。


「空、見えるか」


 沢村が叫ぶ。


「見える」


 片桐は、振り向こうとしてバランスを崩し、慌てて瓦礫にしがみついた。


「青くはないけどな。灰色。でも、天井じゃない」


 天井ではない。

 屋根ではない。

 コンクリートの裏側でもない。


 外だ。


「手を伸ばせ」


 駒田が、下から支えるように言った。


「光を呼べ。ここまで持ってこい」


 片桐は、瓦礫の隙間に腕を突っ込んだ。


 冷たい空気が、指のあいだをすり抜ける。


 外の風。

 外の匂い。

 外の寒さ。


 体育倉庫の中の冷気と、どこが違うのか言葉にはできない。

 でも、確かに“外”だった。


「……こじ開けるぞ!」


 片桐は、体重をかけて石を押した。


 ゴリ、と鈍い音がする。

 一つ、二つ。

 積み重なっていたコンクリートの塊が、ゆっくりと転がり落ちた。


 隙間が広がる。


 外光が、一気に倉庫の中に流れ込んできた。


 薄暗かった体育倉庫が、灰色に洗われる。


 死体袋の列。

 倒れた黒板。

 毛布の山。

 十三人のやせた影。


 全部が、初めて“外の光”で照らされる。


「……見える」


 三輪が、目を細めた。


「外の色だ」


「色があるのか、あっちに」


 御子柴が、ぽつりと言う。


「灰色でも、数字よりはマシだな」


     ◇


「……ねえ」


 外光に目を細めながら、三輪がユウの袖を引いた。


「さっきから、ずっと耳を澄ませてたんだけどさ」


「何を」


「あの声」


 三輪は、体育倉庫の天井を見上げる。


「“余剰の声”。点呼の最後に、いつもお前の名前を呼んでたやつ」


 ユウの喉が、少しだけひりついた。


 この数日間、あの声は当たり前のようにそこにあった。

 自分の名を、もう一度重ねる声。


 点呼の輪にいないはずなのに、確かにその場にいた余分な一人。


「……どうだった」


 ユウは、聞きたくないような、聞きたいような気持ちを押し込めて問う。


「今日、歌ってたとき」


「いなかった」


 三輪は、きっぱりと言った。


「どこを探しても、いなかった。歌の外にも、歌の隙間にも。数字のモノローグみたいな声も、もう聞こえない」


「……そうか」


 点呼をやめたからか。

 それとも、十四が生まれたからか。


 理由は分からない。


 でも、確かに“余分な声”は、どこかへ行ってしまったらしい。


「その代わりさ」


 三輪は、少し照れくさそうに笑った。


「歌ってるとき、お前の声だけ、やたら分かりやすかった」


「なんだよそれ」


「“あ、高城の声だ”って、すぐ分かった。変に裏返るし」


「余計なお世話だ」


 軽口を叩き合いながらも、胸の奥に暖かいものが広がる。


 数字の列から自分の位置を探すのではなく。

 誰かが、自分の声だけをちゃんと聞き分けてくれていたという事実。


 それだけで、数字以外のところに“自分”がいる気がした。


     ◇


「行くぞ」


 瓦礫の上から、片桐の声がした。


「穴、通れるくらいには広がった。腹の大きい人間以外なら、ぎりぎり通れる」


「腹の大きい人間は、しばらくそこで休んでてもらう」


 楢崎が、藤咲の毛布を直しながら言った。


「俺と、何人かは残る。新生児をこの温度の外に出すのは危険だ。まずは外の状況を見てからだ」


「じゃあ、先発隊と残留組に分かれるってわけだな」


 砂原が、瓦礫のほうを見上げる。


「何人かが外を確認して、戻れるなら全員で出る。戻れないなら……」


「戻れないなら、そのとき考える」


 沢村が区切った。


「今、ここで最悪の予想に全部ラベルを貼る必要はない」


「ラベル、やめるんだもんね」


 シオリが、小さく笑った。


「数字も、最悪のパターンも。決めつけて名前を付けるの、今日はお休み」


「……そういうことだ」


 ユウは、瓦礫の穴を見つめた。


 その先に何があるのか。

 生き物の気配があるのか。

 町が残っているのか。

 全部分からない。


 それでも、その穴の向こうには、少なくとも“別の空気”がある。


「ユウ」


 シオリが、少しだけ真剣な顔で呼んだ。


「さっき、“自分の名前を呼ばない”って言ってたよね」


「ああ」


「心の中でも?」


 ユウは、一瞬だけ言葉に詰まった。


 これまで、自分の名を何度も書いてきた。

 点呼のたびに、声に出して名乗ってきた。

 余剰の声にも、何度も呼ばれてきた。


 ここに閉じ込められてから、“高城ユウ”というラベルは、数字とセットで自分を縛るタグになっていた。


「……呼ばない」


 ユウは、ゆっくりと言った。


「せめて、ここを出るまでは。自分で自分の名前を、心の中でも呼ばない」


「それで、消えちゃわない?」


「消えない」


 即答できたのは、自信があったからではない。

 ただ、そう言わないと足がすくんでしまいそうだったからだ。


「誰かが、俺を呼べばいい。俺は、自分以外の誰かの声で、自分の位置を確かめる」


「うわ、めちゃくちゃ重いこと言うじゃん」


 三輪が、苦笑した。


「でも、ちょっとカッコいいな、それ」


「やめろ、変な褒め方」


 それでも、不思議と足は軽かった。


     ◇


 先発隊に選ばれたのは、沢村、砂原、結城、片桐、御子柴、そしてユウだった。


 残るのは、楢崎と藤咲、北條、田所、三輪、シオリ、それから駒田。


「抜け目ないな」


 御子柴が、残るほうの顔ぶれを見て言う。


「医者と産後の母親と子どもと、祈り担当と、数字担当と、力仕事担当と、ビビり担当」


「最後のラベル、余計じゃない?」


 三輪が、口を尖らせた。


「どうせラベル貼るなら、“ここを守る組”とかにしてよ」


「じゃあ、それで」


 沢村が笑う。


「先発隊は、“穴を見る組”。残るみんなは“ここを守る組”。どっちが生き残るにせよ、それぞれの仕事をする」


「戻ってこいよ」


 シオリが、ユウの袖をぎゅっと掴んだ。


「ちゃんと、“外の色”教えてもらわないと困るからね」


「分かった」


 ユウは、彼女の手をそっとほどいた。


「すぐ、戻る」


 瓦礫の山に手をかける。


 一歩、二歩。

 足元に注意しながら、穴のほうへ進む。


 穴は、思っていたよりも狭かった。

 大人一人が横向きでぎりぎり通れるくらい。


 片桐が、先に身体を滑り込ませる。


「外、まだ崩れてる。気をつけろ」


 その声に従いながら、ユウも穴を抜ける。


 肩が石に擦れる。

 腕にざらざらとした感触が走る。

 息を詰めて、身体を押し出す。


 次の瞬間、視界が開けた。


「……」


 思わず、言葉を失った。


 外は、世界が終わったあとのような光景だった。


 体育館だった場所の屋根は、半分以上が落ちていた。鉄骨がねじれ、コンクリートの塊があちこちに転がっている。


 校庭にあったはずの遊具は、土に半分埋もれ、フェンスは何枚か折れて斜めに突き刺さっていた。


 遠くに見える町並みも、ところどころで建物が傾いている。

 煙は出ていない。火の気配もない。

 ただ、全体が静かで、色といえば灰色と、ところどころに残った看板の色だけ。


 風が、冷たく頬を打った。


 体育倉庫の中と同じ“寒さ”なのに、全然違う。


 動きのある寒さ。

 流れていく寒さ。


「……これが、“外”かよ」


 御子柴が、乾いた声で言った。


「思ってたより、派手な終わり方じゃないな」


「派手じゃないほうが、まだマシだ」


 結城が、小さく言う。


「少なくとも、即死の熱も、凍結の白もない」


「人影は」


 沢村が、周囲を見回す。


「いないな」


 片桐が、肩で息をしながら言った。


「少なくとも、この学校の周りには。車も止まってないし、煙もない。動物の気配も薄い」


「……すれ違ったのかもな」


 砂原が、ぽつりと言う。


「俺たちが数え続けてる間に、ここにいた奴らは別のどこかに逃げて。数字がルールを占領している間に、“生きてる世界”は別のルートを通っていった」


「それでも」


 沢村は、体育倉庫のほうを振り返った。


 穴の向こうに、まだ中の様子は見えない。


「ここから、歩き出せるなら、それでいい」


「戻るか」


 片桐が、穴のほうを顎で示す。


「一回、状況報告だ。まだ“出るか出ないか”を全員で決めてない」


「戻ったら……」


 ユウは、一瞬だけ迷ってから、口を開いた。


「戻ったら、“出よう”って言うつもりだ。ここにとどまって数字にすがるより、外で“数えなくてもいい世界”を探すほうがマシだと思う」


「見つかるといいな」


 御子柴が言った。


「そんな世界」


「探すしかないだろ」


 砂原が、わずかに笑った。


「数字に裏切られた連中のやることなんて、そんなもんだ」


     ◇


 穴を通って体育倉庫に戻ると、中ではまだ歌の余韻が漂っていた。


 藤咲は、浅い眠りの中で、腕の中の小さな塊を守るように丸くなっている。

 北條は、そのそばで小さな声で祈りを続けていた。


「どうだった」


 シオリが、真っ先に駆け寄ってくる。


「空、あった?」


「あった」


 ユウは、短く答える。


「灰色だけど、天井じゃなかった。風も、ちゃんと動いてた。町は……かなり崩れてる。でも、歩けそうだ」


「じゃあ」


 三輪の目が少しだけ輝く。


「行ける?」


「行ける」


 沢村が、全員の顔をゆっくりと見回す。


「危険と希望、両方ある。ここに残るか、外に出るか。どっちにしても、“数えない選択”は続ける。外がどんな世界でも、数字で自分たちを縛らない」


「そもそも、外に出た時点で、“生きてるのが何人か”なんて数える意味ないしね」


 田所が、黒板を抱き直す。


「今日からこいつは、外の風にも当たるのか」


「重いなら、置いていってもいいぞ」


 御子柴が笑う。


「ただの板なんだろ」


「ただの板だからこそ、持っていきたい」


 田所は、黒板の縁を軽く叩いた。


「数字に使うためじゃない。風よけと、日よけと、たまに座るベンチになる」


「贅沢なベンチだな」


 三輪が、少しだけ笑った。


     ◇


 出口に向かう列ができる。


 先発隊だった六人に加え、楢崎が藤咲と子どもを慎重に抱き上げ、田所が黒板を抱え、北條とシオリと駒田、三輪が続く。


「本当に行くのね」


 藤咲が、まだ少しふらつく息の中で言う。


「この子、寒くない?」


「寒い。だから急ごう」


 楢崎は、きっぱりと答えた。


「ここにいても寒いのは同じだ。外のほうが、まだ動ける分だけマシだ」


「……そっか」


 藤咲は、腕の中の小さな頭を見る。


 まだ名前もない。

 十四という数字にも組み込まれていない。

 ただ、生まれたばかりの“誰か”。


「こっちの世界、見せてあげないとね」


 彼女は、小さく笑った。


「十三と十三の倉庫だけじゃなくて」


「そうだな」


 ユウは、出口のほうを見据えた。


 瓦礫の穴から、灰色の光が差し込んでいる。


 その向こうにあるのが、“生十四”の世界なのか。

 それとも、“数字を拒否した幽霊の群れ”が彷徨う世界なのか。


 答えは、今はまだ出せない。


 けれど、一つだけ決めていることがある。


 出口をくぐるとき、振り返らない。


 伏せられた黒板も。

 床に並んだ十三の彫像も。

 毎朝の点呼の輪も。


 あれ全部が、自分たちの「生」の全てではないと信じるために。


「行こう」


 沢村の一言で、列が動き出す。


 一人ずつ、瓦礫の穴に身体を滑り込ませていく。

 肩が石に擦れ、ひざが砂をかく。

 それでも、誰も数字を数えない。


 何人通った、とか。

 あと何人残っている、とか。


 誰も、そんなことを口にしない。


 ユウの番が来る。


 穴の手前で、一瞬だけ立ち止まる。


 背中に、体育倉庫の空気を感じる。

 伏せられた黒板の気配も、彫像たちの沈黙も、まだそこにある。


 振り返らない。


 ここで数字を止めた朝が、自分たちにとっての「生」の証明になると信じるために。


 ユウは、穴の中へ身を滑り込ませた。


 かすかな眩しさのあとに、冷たい風が一気に頬を撫でる。


 体育倉庫の中と外を分けていた境界線を、身体が越えた。


 外に出たその瞬間も――


 誰も、「何人目が出た」とは言わなかった。


 ただ、風の冷たさと、空の広さと、瓦礫の下に置いてきた“数えなかった朝”だけが、それぞれの胸の中で、静かに鳴り続けていた。

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