第9話:ザビルの予言
黒い扉をくぐり抜けた先——そこは、果てしない漆黒の虚空だった。
(うわ……な、なんだここ!? 足場がない……!? 落ちる、落ちるって!!)
内心で悲鳴を上げて両足をバタつかせた魔王だったが、身体は不思議と空間の途中で浮遊するようにしっかりと固定されていた。
冷や汗を拭いながら周囲を見渡すと、さらに異常な光景が広がっていた。
空間のあちこちに幾重にも、無数に浮かぶ「透き通る結晶の鏡面」。
それらはまるで意思を持っているかのように、静かに球状の軌道を描いて旋回している。
「……な、なんだここは……?」
「フフフ……ここは『世界の理』を観測し、記録するための領域にございます」
ザビルは静かに微笑みながら、空間の中を滑るように歩いていく。
「ここには過去、現在……そして膨大な『可能性』の記録が揺らめいております」
鏡面の一枚一枚には、動く映像が静かに映し出されていた。
ある鏡には、かつての魔王城の開城式(過去)。
ある鏡には、今まさに参謀室で眉をひそめて腕を組んでいるルキエルの姿(現在)。
そして、魔王の頭上に浮かぶひときわ大きな鏡面には、見たこともない凄惨な光景が映し出されている。
今の面影すらないほど荒廃しきった魔王城の玉座の間。
その瓦礫の山の中を、鎧を纏った魔王と、ルキエルが肩を並べて歩いていた。
「これは……未来を見せているのか?」
あまりにも生々しく不吉な映像に、魔王の声が引きつる。
自分とルキエルの悲惨な末路。
これが決定された未来なのだとしたら、あまりにも救いがない。
だが、ザビルはすっと首を横に振った。
「いいえ。これは『未来』ではございません」
「え……? でも、あそこに映ってるのは……」
「魔王様。いかに万能の術であれ、時間という絶対の理を超越することなど不可能です。過去へ戻ることも、未来へ跳ぶことも……一度流れた刻を逆転させる術など、この世界には存在いたしません」
ザビルは静かに自らの手に浮遊するひとつの結晶を弄んだ。
「時間とは一方通行の『矢』。ゆえに、未来とはまだ確定しておらぬ『無数の可能性の重ね合わせ』に過ぎないのです。……言わばこれは、現状から観測し得るあらゆる事象、因果の数値を集め、この空間が導き出した『演算結果』」
「えんざん……結果……?」
「左様でございます。風の吹き方、ひとつの石ころの転がり、そして魔王様のご決断……それら無数の要素が複雑に絡み合い、最悪の確率で弾き出された『ひとつの可能性の相』に過ぎません」
(言っていることが難しくよくわかないけど……)
「……つまり、あれは俺の決断の結果……なのか?」
「そうということもできます。魔王様の決断は、すなわち魔族の決定ゆえ……」
恭しく頭を垂れるザビル。
その視線の先にある大きな映像の中では、荒廃した城と破滅の光景が冷たく佇んでいる。
「私は幾度も計算を繰り返しました。ですが……その結果は、いつも変わることがないのです」
(……確かに、ルキエルの言っていた通りだ)
魔王は内心で息を飲んだ。
こんな突拍子もない話、普通の魔族に言っても信用などするはずがない。
魔族が敗れる……などという者が
……この魔王を除いては。
「……私を狂人とお思いでしょうが」
にっこりとザビルが微笑む。
しかし、返ってきた言葉は彼女の予想外のものだった。
「いや…………お前は正しい」
「…………おや?」
意外そうに目を細めるザビル。
だがすぐに納得したように、再び薄笑いを浮かべた。
「魔王様は、何やらお変わりになられましたね」
魔王はじっと、荒廃した未来の映像を見つめたまま呟く。
「間違いなく、魔族は勇者に……人間に勝つことなどできない」
「ええ、おっしゃる通りです。どうして勇者に勝てることなどありましょうか。……人間はなぜか、神に……愛されているのですから」
「神……?」
「あるいは、この『世界の設計者』というべきでしょうか」
「神。そんなものが本当にいるのか?」
「どうでしょうか……ですが、私はそう仮説を立てております。そうでなければ、この演算の結果が成立しないのです。この世界はあまりにも……勇者に都合が良いようにでき過ぎている」
世界の裏側を暴くようなザビルの言葉に、魔王の背筋を冷たい汗が伝う。
ザビルは妖しく目を細めると、頭上に浮かぶ荒廃した世界の結晶を指差した。
「この世界を変えたいとお思いでしょうか?」
「変える?そんなことはできるのか?」
「さあ、どうでしょうか。おそらく、勇者に勝つなどは、どう足掻いても不可能かと思われます……」
シビルは薄く微笑む。




