8話(不穏な噂)
半月の船旅を終え、ついに船は隣国の港へと着いたのです。
タラップを降りたわたくしの目の前には、見慣れた豪華な馬車と、懐かしい笑顔が待っていてくれました。
「ルシアン! ああ、本当に待ちわびたわ!」
馬車から現れたのは、母の古くからの友人、ランセル伯爵夫人です。
わたくしにとっては幼い頃からずっと可愛がってくださる優しいおばさまなのです。
貴婦人らしからぬ勢いで抱きつかれ、わたくしは苦笑しながらもそれを素直に嬉しく思います。
母からの手紙で、わたくしの到着を心待ちにしていたと聞かされました。
懐かしい再会を喜び合った後、側にいらしたリチャード様を見上げると、まだ少し船酔いが残っているせいなのか、それとも昨夜から何も召し上がっていないせいなのか、とても優れないお顔をしています。
「おばさま、ご紹介いたします。我がノートル男爵家の取引相手であり、父のビジネスパートナーである、リチャード様です」
完璧な微笑みで紹介すると、彼の眉がピクリと動きます。何故かその瞳は昨日甲板で見た時と同じ、どこか遠くを見ています。
(やはり、まだ体調が戻られないのかしら。無理もありませんわね)
そこへ、別の方向から馬車が近づいて来ます。
そしてその馬車から降り立ったのは、この国の公爵家嫡男であり、リチャード様のご友人でもあるアルベール様でした。
「やあ、リチャード! 迎えに来たよ……って、おや?」
リチャード様と挨拶を交わしていたアルベール様が、隣にいるわたくしとランセル伯爵夫人に気づき、目を丸くされました。
「ルシアン嬢じゃないか! 久しぶりだね。……え、待ってくれ、君たちは一緒にこの船で来たのか? どういう知り合いなんだい?」
しつこく尋ねてくる彼に、わたくしはすかさず告げました。
「お久しぶりでございます、アルベール様。今回はわたくしの父と、リチャード様のお父様が取引の関係にありまして。その仕事の都合で、同行させていただいたのです」
「へえ、ビジネスの……」
アルベール様は納得したようでしたが、何故かわたくしに対して非常に親しげな態度を崩しません。以前、こちらのサロンにいた頃からの顔なじみだから当然の距離感ではあるのですが、それを横で見ているリチャード様の目が、どんどん冷ややかになっていくのが分かり、あからさまに面白くなさそうな顔をしています。
(何故そのようなお顔をなさるのかしら? もしかしたらご自分の大切なご友人と、わたくしが親しげにしているからかしら)
そんなことを気にかけながらも、今日のところは、わたくしはランセル伯爵邸へ、リチャード様はアルベール様のお屋敷へとそれぞれ滞在するため、向かうことになりました。
「また明日、お仕事の打ち合わせで」
と事務的に告げて別れることとなったのです。
────
ランセル伯爵邸にて。
わたくしはおばさまと応接室でお茶をいただきました。
二人きりになったのを見計らい、今回の『婚約』の真実と、リチャード様のお仕事が軌道に乗ったなら『円満な婚約解消』に向けてお父様を説得することをお話ししました。
「……というわけなのです。お父様は実の娘まで仕事のために嫌がる相手に嫁がせようとしているのです。いくら侯爵様からの申し出と言っても酷いとは思いませんか?」
わたくしの言葉を聞いたおばさまは、呆れたように、だけどどこか楽しげにクスリと笑いました。
「でもまあ、貴族の結婚なんて皆、そのようなものよ。中には顔も見たことのない相手に嫁ぐ娘だって珍しくないわ」
「だって、おばさま。お父様とお母様は恋愛結婚なのです。だったら娘のわたくしだって、と思っておりましたの」
「だったらルシアン、あなたは彼のことは好きになれない?」
「いえ、そういうことではありません。確かに素敵な殿方です。ですからリチャード様には想い人と一緒になっていただきたいのです。それにはわたくしはただの邪魔者でしかないのです」
「想い人ね……でも、ルシアン。私はさっきの彼、リチャード様を見ていたけれど、とてもあなたのことを嫌がっているようには見えなかったわよ?」
「え? まさか。あの方は無理をなさっているだけですわ。でもこのところは流石に限界なのかしら、ずっと不機嫌なのです。船酔いのせいだと思いたいのですが……」
「ふふ、それはね……」
おばさまは言いかけた言葉を飲み込み、それ以上言わず、意味深に微笑むだけなのです。
大人の余裕なのかしら? わたくしにはさっぱり分かりません。
しかし、おばさまの表情は、話題がリチャード様の実家である侯爵家の話に変わった途端、急に真剣なものになりました。
「ところで、ルシアン。ビジネスの話が出るなら、少し耳に入れておいた方がいい不穏な噂があるのよ」
「不穏な噂、ですか?」
身を乗り出すわたくしに、おばさまは声を潜めて告げたのです。
「リチャード様のお父様が出資された船のことよ。……風の噂では、港を出る時に『沈むような仕掛け』を施されていた可能性があるらしいの。海賊を使うと足が付くから、事故に見せかけようとしたのでしょうね」
心臓がドクリと跳ねました。それが本当なら、単なる不幸な事故ではありません。これは事件です。
「どなたが、そんな酷いことを?」
「リチャード様のダッフル侯爵領と隣り合う、『レイモンド伯爵』よ。あの男、最近この国に頻繁に出入りしていてね。裏で妙な動きをしていると、こちらの社交界でも噂になっているわ。ノートル男爵家がその取引に関わるなら、巻き込まれないように気をつけなさい」
レイモンド伯爵。
わたくしは手にしたカップを握りしめ、窓の外の空を見つめました。
リチャード様が抱える、まだ本人すら気づいていないかもしれない暗い闇が、わたくしの脳裏に渦巻いています。
(リチャード様。わたくしがお守りいたしますわ。そして必ずや『円満な婚約解消』して差し上げます)




