7話(すれ違い)
「ルシアン嬢」
私が声をかけると、子供たちの頭を優しく撫でていた彼女が、驚いたようにこちらを振り返った。
「リチャード様? もうよろしいのですか?」
「ああ。……少し揺れが落ち着いたからな」
私は側にいくと、一度深呼吸をしてから彼女を真っ直ぐに見つめた。
「先ほどは、本当にすまなかった。私のために親身になって世話を焼いてくれようとした君に、つい声を荒らげてしまった。紳士として、いや、一人の人間として、到底許される振る舞いではなかった」
頭を下げた私を、ルシアン嬢は慌てて、両手を振って止めた。
「まあ! お顔を上げてください、リチャード様。気にしないでくださいませ! 誰だって、あのようなお辛い時にしつこく話しかけられたら、鬱陶しく思われるのは当たり前ですわ。それなのに、わたくしったら自分の経験を押し付けて、ついお節介を……。こちらこそ、本当にごめんなさい」
申し訳なさそうに頭を下げて、逆に謝るルシアン嬢。
私はその姿に、ますます自分の器の小ささを思い知らされると同時に、彼女の優しさに、心がじんわりと温かくなっていった。
それからしばらくの間、私たちは並んで甲板の手すりに寄りかかり、心地よい潮風を浴びながら他愛のない話をした。
空に浮かぶ雲の形、隣国の気候、私が少しだけ楽になったこと。そんな些細な会話が、楽しく感じられた。
しかし、会話が少し落ち着いたところで、彼女が急に真面目な顔をして私を見上げてきた。
「リチャード様。あちらの国に到着いたしましたら……わたくしたちは、書類上だけの婚約者ではなく、対等なビジネスパートナーということにいたしましょう」
「……ビジネスパートナー、か」
その言葉が、私の胸にちくりと刺さる。
それが、借金を背負った我が家や、今回の視察を成功させようとする私の立場を考えての提案だということは、痛いほど理解できた。
しかし、それをこれほどあっさりと、簡単に割り切られてしまうことに、なんだか切なさを感じてしまう自分がいた。
「ええ。リチャード様は本当に素敵な殿方ですわ。端正なお顔立ちに、その気品漂うお姿……きっとあちらの社交界でも、あっという間に皆様の注目を集めることでしょう」
そう言い切って、にこりと笑う。
「その時、下手に婚約者がいるよりは、独身として振る舞った方が、何かとお話が早いですもの」
「お話が、早い……?」
「こちらの国は、わたくしたちの生まれた国とは違い、女性たちもビジネスに深く関わっていますわ。有力な女主人や、経済を動かす貴婦人たち……彼女たちをその魅力で虜にすることができれば、リチャード様のお仕事の幅も一気に広がりますわ!」
ルシアン嬢は名案だとばかりに、得意気な笑顔を向けてくる。
だが、私の心の中には、冷水を浴びせられたような複雑な感情が渦巻いていた。
私を隣国の令嬢や貴婦人たちに売り込もうというのか。この、私の婚約者であるはずの彼女が。
込み上げてくる割り切れない感情を抑えきれず、私は思わず、少し強い口調で彼女に問い詰めていた。
「……君は、自分の婚約者が、他の令嬢からそのような目で見られても、なんとも思わないのか?!」
我ながら、あまりにも情けない言葉だった。
ルシアン嬢は一瞬、きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに、クスリといつものように笑って見せた。その目は、まるでこちらの気持ちなど分かっていないようだった。
「嫌ですわ、リチャード様。わたくし、自分の立場は十分にわきまえていますわよ? 我が家の融資で危機を脱したとはいえ、これはビジネス。今回のわたくしの使命は、リチャード様が確実な成功を手にするためのお手伝いをすることですもの」
「……っ」
確かに彼女の言うことは正しい。合理的で、我が家の未来を考えてくれている。
しかし、その言葉にどうしようもなく心がざわつく。
(彼女にとって、私の存在とは一体何なのだ?)
そんなことを考えていると、いつの間にか日は傾き、夕陽が海を美しく染めていく。
それぞれの客室へ戻ろうと、ルシアン嬢が歩き出し、別れ際に振り返って微笑んだ。
「それではリチャード様、お夕食の時間になりましたら、お部屋の方へ声をかけにまいりますね」
その言葉に思わず言い返してしまった。
「……いや、結構だ」
気がつけば、私はひどく冷めた声で、彼女の言葉をまたも突き放していた。
自分でも驚くほど、胸の中のモヤモヤとした感情がコントロールできないでいた。
「気分がすぐれない。今夜の夕食はいらないから、放っておいてくれ」
それはまるで子供のような、理不尽な八つ当たり。
さっき謝罪したばかりだというのに、私はまた彼女に同じような態度をとっている。
しかし、ルシアン嬢はやはり、私のそんな子供じみた八つ当たりにさえ全く気づかない様子だった。
「そうですわね。お腹がいっぱいになってしまえば、また気持ちが悪くなってしまいますもの。それはお辛いことですわ」
「ルシアン嬢……」
「何か必要なもの、お手伝いできることがあれば、夜中であっても何でもおっしゃってくださいね。それでは、失礼いたします」
どこまでも優しく、完璧な『ビジネスパートナー』として、彼女は軽やかに去っていった。
一人残された私は、自分の部屋のベッドの上でただ天井を見つめる。
胃の不快感はとっくに消え去っているというのに、胸の奥のモヤモヤとした得体の知れない感情だけがいつまでも消えてはくれなかった。




