6話(船旅)
船旅というものを、私は完全に甘く見ていた。
隣国までの船旅は、およそ半月。
出港して数日はまだ良かった。しかし、沖に出た途端に激しくなった船の揺れは、私の三半規管を容赦なく破壊した。
(前回はここまで酷くはなかったはずなんだが)
激しい目眩と、胃の底からせり上がってくる不快感。
隣国へ向かう前の確固たる決意など、この荒波の中では木っ端微塵に砕け散った。今の私は、侯爵令息としての威厳などまるでない、ただの哀れな『陸の人間』に過ぎなかった。
「リチャード様、大丈夫ですか? お顔の色が真っ青ですわ」
彼女は、客室のソファでぐったりと横たわる私を、心配そうに見つめていた。
驚いたことに、彼女は驚異的なほど船に強かった。これほどの揺れの中でも、その足取りはしっかりとしていた。
「……あ、ああ……気にしないでくれ……」
声を出すのすら億劫だった。胃がひっくり返りそうだ。
「そんな時は、横になったままそっと目を閉じるとよろしいですわ。それから、少し落ち着いたら甲板に出て、遠くの水平線を見つめるのです。そうすると不思議と、少し楽になりますから」
ルシアン嬢は親身になって、あれこれと世話を焼いてくれる。
彼女の優しさは分かっていた。分かってはいるのだが、今の私には、そんな声さえも、煩わしく頭に響く。
「冷たいお水でも持ってまいりましょうか? それとも温かいものの方が宜しいですか」
「……少し、黙っていてくれないか!」
気がつけば、怒鳴っていた。
自分でも驚くほど刺々しい声が、狭い客室に広がる。
「……あ」
やってしまった、と思った。
完全に八つ当たりだ。私を気遣ってくれているだけの彼女に、あろうことか声を荒らげるなど、紳士として、いや人間として最低の振る舞いだった。
謝らなければ。そう思うのに、口を開けばまた別のものが込み上げてきそうで、私はただ、吐き気と自己嫌悪の狭間で苦しんでいるだけだった。
ルシアン嬢といえば、一瞬だけ大きな瞳を丸くしたが、傷ついた様子も見せず、
「……失礼いたしました。では、少し休んでいらしてくださいね」
そう言って、静かに部屋を出て行った。
残された私は、自分の器の小ささにため息をつき(それすらも吐き気を誘ったが)、どうすることもできない船の揺れに耐え続けるしかなかった。
それから数時間後。
少しだけ波が穏やかになり、胃の調子が落ち着いてきたので、私は這い出るようにして甲板へ向かった。
ルシアン嬢の『遠くを見ると楽になる』という言葉を試してみようと思ったのと、何より、彼女に一言謝りたかったからだ。
扉を押し開け、潮風を浴びた瞬間、私の目に飛び込んできたのは、思いもよらない光景だった。
「ほら、ふあふあした雲の、ずうっと下の方を見るのよ。じっと見つめていると、頭の中のゆらゆらが、どこか遠くへ飛んでいってしまうから」
甲板の上で、ルシアン嬢がしゃがみ込んでいた。
彼女の近くには、やはり船酔いで顔を青くした、平民らしき子供たちが数人集まっている。
おそらく、一般客室の乗客の子供たちだろう。
ルシアン嬢は自分のドレスが汚れるのも構わず、子供たちの背中を優しくさすっていた。
「本当……? お姉ちゃん……」
「ええ、本当よ。わたくしも昔、初めて船に乗った時は、あなたたちみたいに泣きそうだったの。でもね、遠くを見つめて、大きく息を吸い込むと、ほら、やってみて?」
彼女が優しく促すと、子供たちは小さな胸をいっぱいに膨らませて、遠くの方へ目を向けていた。
さっきまで泣きべそをかいていたはずの子供たちの顔に、少しだけ元気が戻っていく。
「あ、ちょっと楽になったかも……!」
「ふふ、そうでしょう? あなたたちはとっても偉いわ」
彼女は、まるで母のような、見たこともない柔らかな笑みを浮かべて子供たちの頭を撫でていた。
私はその様子を、胸が締め付けられるような、妙な感覚で見つめていた。
『絶対に何かやる』
出発前、私は彼女に対してそう確信していた。
確かに彼女は『何かやって』いた。しかしそれは、私が心配していたような、トラブルなどでは断じてなかった。
貴族の令嬢でありながら、平民の子供たちと同じ目線で話し、一生懸命に面倒をみていた。
何より、私にあれほど理不尽に怒鳴られた後だというのに、彼女は少しも気にした様子も見せずにただただ、目の前の子供たちに優しく手を差し伸べている。
(やはり、不思議な女性だな。いや、不思議とは違う、なんなのだろうか……それにしてもこの光景、どこか心に引っかかる)
私は、先ほど放ってしまった言葉に反省しながら、今度こそ、心からの謝罪をしなければと、彼女の元へ歩み寄った。




