17話(過去の記憶)
隣国にいるノートル男爵の友人、カラクから一通の緊急の手紙が届いた。
レイモンド伯爵を追い詰めるための決定的な証拠が掴めそうだという報せを受け、ルシアンの父はすぐさま隣国へと出発した。
男爵が留守中のある夜、建設が進む港から突如として火の手が上がった。
狙われたのは、着工したばかりの宿屋と巨大な倉庫。しかし、幸いにも発見が早く、ボヤ騒ぎだけで食い止めることができた。
「おそらく、あちら側の焦りからくる嫌がらせですわね。信頼できる警備部隊をすぐに手配してください。港の全域に昼夜問わず配置します」
夜を徹して現場でテキパキと指示を出すルシアンの姿は、リチャードの目にはただただ、逞しく映った。
ボヤ騒ぎの報せを聞いて真っ先に駆けつけていたリチャードは、暗闇の中、焦ることもなく冷静に立ち回る彼女の姿に思わず目を奪われていた。
(相変わらず、すごいな君は……)
リチャードは声にならない声を漏らした。
その後も休む間もなく復旧作業と警備体制の見直しに追われ、王都の治安局への報告も無事済ませた。
気づけば日が傾き始めていた。
「ルシアン嬢、これでもう警備は万全だ。……ところで、食事はどうした? 昨夜からずっと何も口にしていないのではないか。このあと、少しどこかで食べていかないか」
リチャードの気遣いに、ルシアンも「そういえばお腹が空きましたわ」と頷き、二人は近くの店へと入った。
しかし、そこは貴族たちが普段から利用する高級レストランだった。
二人が入店した瞬間、店内の視線が一斉に集まった。
あちこちの席から、ステファニーが流した噂を信じた貴族たちが、リチャードを哀れむようなヒソヒソ声を漏らしている。
「お可哀想に、ダッフル侯爵家ともあろう方が、あの成金男爵家に脅されているそうよ……」
その言葉に、ルシアンはカッと目を見開いた。リチャードのプライドをこれ以上傷つけられてはいけないと、彼女は思わず立ち上がり、何かを言いかけようとした。
しかし、それよりも早く、リチャードがルシアンの前にそっと手を差し出し彼女を止めた。
彼は周りを見渡すように立ち上がり、毅然とした態度で貴族たちを見下ろした。
「ここにいらっしゃる皆さんは、何か大きな誤解をされているようだ。私の方が無理を言って、彼女に付き合ってもらっているだけなのだが?」
その声に場が急に静まり返る。
しかし、一人の貴族令嬢が、わざと周囲に聞こえるような声を上げ、リチャードを憐れむような目で見つめた。
「あら、お気の毒だわ。きっと裏で、彼女にそう言わされているのかしら」
その嫌味たっぷりな言葉に、リチャードは心底呆れ果てたように冷ややかな笑みを浮かべた。
「あなた方のように、人の噂だけを鵜呑みにして面白がる方々には、彼女の本当の素晴らしさなど、一生理解できないでしょうな」
リチャードはそれだけ言い残すと、突然のことにキョトンとしているルシアンの手を引き、堂々と店を出て行った。
ルシアンは慌てながらも、彼の逞しい背中を見つめながらついていった。
────
店を出ると、辺りはいつの間にか暗くなっていた。リチャードはすぐに足を止め、繋いだ手を離してルシアンを振り返った。
「すまない、ルシアン嬢。私のせいで、せっかくの食事が台無しになってしまった」
申し訳なさそうに頭を下げるリチャード。
しかし、その瞬間、ルシアンの脳裏に、鮮やかな過去の光景が蘇った。
(あ……。先ほどの、光景……)
まだ幼い頃。母の実家である伯爵邸で開かれたお茶会の席。
領地を持たない貧乏貴族だと、高位貴族の令嬢たちに囲まれて酷い言葉を投げつけられ、幼いながらにじっと耐えていた自分。
そんな時、その場の空気を断ち切るように、颯爽と助けに入ってくれた、見知らぬ少年の姿が脳裏に浮かぶ。
確かあの時、その少年は、自分をバカにした令嬢たちに向かって、毅然と言い放ったのだ。
『あなたたちのような思い上がった人たちに、彼女の素晴らしさは理解できないでしょうね』と。
「……リチャード様、もしかして……」
ルシアンは弾かれたように顔を上げ、震える声で幼い日の記憶をリチャードに伝えた。あの時のお茶会で、わたくしを助けてくれたのはあなただったのですか、と。
「え……? あの時の女の子は……君だったのか!?」
リチャードは驚愕のあまり目を見開いた。まさかルシアンがあの時の女の子とは思わなかったのだ。
「あの日、私はお茶会へ向かう途中、馬車からある光景を見たんだ。通りかかった街中で、一人の子供が馬車の前に飛び出してね。すると、前にいた馬車からドレスを着た小さな女の子が飛び降りて、自分の服が汚れるのも気にせず、その子を抱き起こして『大丈夫? 怪我はない?』と声をかけていた。……それが、君だったんだね、ルシアン。まさか、その後に参加したお茶会で、再び君と顔を合わせることになるとは思わなかったが」
その時リチャードはふと、船の甲板で平民の子供たちの面倒をみていたルシアンの姿を思い出した。
あの時、なぜか心に引っかかっていた理由が、今ようやく分かった気がした。
「子供だった私は、君が身分を理由に虐げられているのを見て、どうしても我慢できなかった。あんなに優しく勇敢な子を、周囲が見下すのが許せなくて……だから、君の素晴らしさは理解できないと言ったんだ」
リチャードの告白を聞き、ルシアンは胸の奥がじんわりと温かいもので満たされていくのを感じた。
そして、彼女もハッと息を呑んだ。
そういえば……王宮での舞踏会の際、リチャードがステファニーからルシアンを庇った時のことだった。彼女はその場で、過去の記憶が頭の中を駆け巡ったが、その瞬間、急に声をかけられ忘れていた。
そうだ。あの日、思い出しかけていたのは、この記憶だったのだと。
リチャードの言葉と共に全てを思い出した。
「まあ……そんな昔から、わたくしたちは出会っていたのですのね」
「本当だな。まさかこんなところで、記憶の糸が繋がるなんて」
二人は夜の街灯の下、静かに見つめ合っていた。
長い時を越えて、こうして再び巡り会えたことを、リチャードはただの偶然ではなく、まるで必然ではないのかと感じていた。
そう、リチャードだけが……。
一方のルシアンといえば、運命という言葉とは無縁だった。彼女にとっては、すべてが過去の答え合わせにすぎなかった。




