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第82話:勇者の出陣 ―― 魔王残党の罠

 エルムの街に、不穏な灰色の雲が垂れ込めていた。湿った風が路地裏を吹き抜け、『VOID』の看板を小さく揺らす。店内の空気は、朝から張り詰めた糸のような緊張感に満ちていた。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【舞台:古本屋『VOID』店内 ―― 早朝】


「……間違いない。この魔力サイン、そして伝令の紋章。北方の辺境領を襲っているのは、かつて俺が仕留め損ねた魔王軍の残党――『黒角こっかくの連隊』だ」


 レオンがカウンターに一枚の書状を叩きつけた。羊皮紙には、禍々しい紫色の魔力が封じられ、読み手に焦燥感を抱かせる独特の律動を放っている。


「残党、ね。……魔王が討たれて久しいこの時期に、それも帝国の直轄領を狙うなんて、あまりに合理的ではないわね」


 アスカは黒髪を指先でなぞりながら、書状に残留するマナを解析していた。彼女の瞳には、敵の狙いを見透かすような冷徹な光が宿っている。


「でも、レオンさん、 放っておけませんよ。書状には、多くの村が焼き払われ、救援が間に合わなければ数千の命が失われるとあります。……私も行きます。レオンさん一人では、敵の物量に押し切られるかもしれない」


 カイルが拳を握り、決然と告げた。その瞳には、アスカに認められたいという想い以上の、純粋な正義の炎が灯っている。


「カイル……。ああ、お前の火の魔法があれば心強い。だが……」


 レオンは言葉を切り、カウンターの奥で優雅に茶葉を選んでいるゼノスと、アスカを交互に見た。


「俺たちがここを離れれば、『VOID』の戦力は大幅に削られる。帝国のファビアンとかいう野郎が、この隙を突かない保証はない」


「おやおや。勇者様ともあろう方が、私の実力をお忘れですか? 執事の仕事には、不快な害虫を駆除することも含まれていますよ」


 ゼノスが笑いながら、カイルの前に温かい紅茶を置いた。


「カイル君。君の『熱さ』は、今ここでくすぶらせるべきではない。……アスカは私とリサ、そしてシュシュがいれば十分だ。君たちは君たちの『正義』を果たしてくるがいい」


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【別れの時 ―― 託される想い】


 アスカは、カイルの使い古された杖にそっと手を触れた。


「……カイル。あなたの『収束』の術式には、まだ揺らぎがある。でも、戦場という極限状態は、時に理論を超えた成長を促す変数になるわ。……生きて戻りなさい。それが、この店に所属する者の最低限の義務よ」


「アスカ様……。はい! 必ず、一回り大きくなって戻ってきます!」


 アスカは次にレオンを見上げ、その無骨な手に、旅の間に編み上げた「魔力付与のしおり」を握らせた。


「レオン。あなたは熱くなりすぎると、防御の演算が疎かになる傾向がある。この栞が、あなたの命を守る盾になるはずよ。……預けておくわ」


「……相変わらず可愛げのない言い草だな。だが、ありがたく受け取っておくぜ。アスカ、留守の間、この店を……ミーナやテオのことを頼んだぞ」


「言われるまでもないわ」


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【ラストシーン】


 エルムの街門。馬に跨った二人の背中を、アスカ、リサ、ゼノス、そしてシュシュが見送っていた。


「レオンさーん! カイルさーん! 気をつけてねーっ!」


 お隣のミーナが大きく手を振り、テオも隣で深く頭を下げている。


「二人とも、本当に行っちゃったわね……」


 リサが少し寂しげに呟いた。その足元で、シュシュが耳をぴんと立てる。


「……アスカ様。街の影が、ざわついていますニャ。まるで、獲物がいなくなるのを待っていたかのように……」


「ええ、シュシュ。敵の計算通りね。……勇者と魔術師を遠ざけ、この店の『物理的防壁』を排除した。……来るわよ。帝国の、本当の目的が」


 アスカが振り返ると、そこには誰もいないはずの路地裏から、数多の「銀色の視線」が店を監視しているのが見えた。

 遠ざかっていくレオンとカイルの蹄の音。 それが消えるのを待っていたかのように、街を包む空気が、一気に冷たく、重い「冬」へと変質し始めていた。


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