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第79話:テオの来訪と、古の地図

 開店記念日の喧騒が嘘のように、翌日の『VOID』は穏やかな静寂に包まれていた。窓から差し込む朝の光が、宙に舞う細かな埃を金色の粒に変えている。

 アスカはカウンターで、旅の記録を魔導書へと転記していた。羽ペンの走るカリカリという規則的な音だけが、店内に響く心地よいリズムとなっていた。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【舞台:古本屋『VOID』店内】


 カラン、とドアのベルが控えめな音を立てた。


「アスカさん、おはようございます。……まだ、お忙しいでしょうか?」


 現れたのはテオだった。昨日の祝いの席での明るい表情とは打って変わり、その瞳には知的好奇心と、それを上回る困惑が混ざり合っている。


「おはよう、テオ。私の演算に『忙しい』という概念はないわ。ただ、優先順位があるだけ。……あなたへの優先順位は、かなり高い位置に設定されたわね。その手に持っているものが理由で」


 アスカはペンを置き、テオが抱えている古びた筒状の革ケースに視線を向けた。


「流石ですね。……実は、昨日家のポストに見たこともない地図が入っていたんです。でも、これ……普通じゃないんです」


 テオがカウンターに広げたのは、羊皮紙とは明らかに異なる、鈍い銀光沢を放つ特殊な布に描かれた地図だった。


「あら、何よそれ。ただの地図にしては、魔力の残滓ざんしが強すぎない?」


 奥のキッチンから、香草の束を手にしたリサが顔を出した。その肩には、眠そうな目をこすりながらシュシュが乗っている。


「本当ですニャ……。鼻の奥がツンとするような、嫌な術式の匂いがしますニャ」


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【地図に刻まれた違和感】


 アスカは地図に手をかざし、その表面を指先でなぞった。


「……不可解だわ。このインク、顔料に水銀と精製されたマナ・クリスタルが混入されている。これは地図としての機能以上に、別の『目的』を持って作られたものね」


「ええ。僕もそう思ったんです。エルム周辺の地形が描かれているはずなのに、場所によって道が動いているように見えて……」


 テオが指し示したのは、エルムの西側に位置する未開拓の山林地帯だった。アスカが特定の術式を呟きながら地図に触れると、銀の布の上に青白い光の線が浮かび上がった。


「おやおや。これはまた、執事の仕事が増えそうな気配だな」


 いつの間にか背後に立っていたゼノスが、冷めた紅茶を下げながら地図を覗き込む。彼の瞳が、一瞬だけ鋭く細められた。


「ゼノス、あなた何か知っているの?」


「さて、どうかな。ただ、この術式の組み方、そして情報の隠蔽工作……。私の知っている『ある場所』のやり方に酷似している」


「帝国……ってこと?」


  リサが緊張した面持ちで問いかける。アスカは無言で解析を続けた。


「……解析完了。テオ、この地図は情報の『受信機』ね。エルムの地脈の動きをリアルタイムで帝国へ送信するためのビーコン(発信機)として機能しているわ」


 テオの顔から血の気が引いた。


「じゃあ、僕がこれを持ってきたせいで、この店の場所や魔力情報が全部筒抜けに……?」


「落ち着きなさい、テオ。あなたの行動に悪意がないことは、脈拍の安定度から証明されているわ。……問題は、この地図をあなたの家のポストに置いた『意図』よ」


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【忍び寄る影】


 アスカが地図を丸めようとしたその時。地図のインクが赤黒く変色し、中央から一本の赤い線が、現在の『VOID』の地点を指して強く発光した。


「捕捉されたか……。速いな。どうやら向こうは、私たちが気づくのを待っていたようだ」


 ゼノスの声が、かつてないほど低く響いた。


「アスカ様、外ですニャ! 街の空気が……歪んでいますニャ!」


 シュシュの警告に、アスカは窓の外を凝視した。 平和だったエルムの空に、鏡が割れたような空間の歪みが生じ、そこから銀色の鎧を纏った数人の騎士たちが、音もなく地上へと降り立っていた。


「……テオ。この地図、預かっておくわ。代金は、あなたの安全で支払うことにする」


 アスカは黒髪を凛と揺らし、店の扉へと歩み寄った。


「リサ、戦闘準備。ゼノス、テオを奥へ。……日常の数式が書き換えられる。これより、防衛プロトコルを開始するわ」


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【ラストシーン】


 店を出たアスカの前に、銀色の騎士たちが整然と並ぶ。その中央で、一人の男が優雅に一歩踏み出した。


「素晴らしい演算速度だ。……古本屋の主にしておくには、惜しい頭脳だね」


 男の声が響くと同時に、背後のエルムの街並みが、蜃気楼のように揺らめいた。 アスカの手の中にある古の地図が、まるで心臓のように脈打ち始め、彼女の白い指先を不気味な赤色に染め上げていく。

 黄金の日常という幕が、無慈悲な力によって今、力任せに引き剥がされようとしていた。


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