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第64話:事象の地平線の罠

【舞台:地下大空洞・盤上の決戦】


 地下空洞の空気は、アスカの脳が発する演算熱によって陽炎のように揺れていた。盤面は、ゼノスが築き上げた完璧な包囲網によって黄金色に埋め尽くされ、アスカの『王』は死地へと追い詰められている。誰もが、そしてゼノス自身も、終局は間近だと確信していた。


「……さあ、アスカ。終わらせよう。君の論理は今、私の掌の上で完全に停止した」


 ゼノスが勝利を確信したその時、アスカの手が、力なく駒に伸びた。彼女はあろうことか、自分の『王将』を守るべき最強の守備駒を、わざわざゼノスの攻撃範囲へと無防備に晒す位置に動かした。


 乾いた音が、静寂に響く。


「……? アスカ、それは何だい? ……あまりの疲労に、基本の座標インデックスすら読み間違えたのか?」


 ゼノスの手が止まる。リサも息を呑み、絶望的な表情で盤面を見つめた。それは、魔導士見習いでも犯さないような、あまりに「稚拙な計算ミス」に見えた。


「……ふぅ。……そうよ。もう、限界だわ。……私の演算能力は……あなたの圧迫に、耐えきれなかった……」


 アスカは激しく肩で息をし、乱れた黒髪の間から、焦点の定まらない瞳をゼノスに向けた。その顔は蒼白で、今にも意識を失いそうなほどに消耗している。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【皇帝の深読みと自滅】


 ゼノスは勝利の一手を指そうとした――が、その指先が、盤上数センチの位置で凍りついた。


(……待て。本当か? あのアスカが、これほど単純な、救いようのないミスを犯すというのか?)


 ゼノスの超一流の知性が、警鐘を鳴らし始める。彼は駒を指す代わりに、アスカが指した「ミス」の局面を、魔力演算で徹底的に解析し始めた。


(この一手によって、私の最短の詰みルートが消えたわけではない。……だが、もしこれが、私の『完璧な先読み』を誘う餌だとしたら? この無意味な空間こそが、逆転の術式を隠蔽するための『空白』ではないのか? ありえない……。だが、彼女ならやりかねない。この『ミス』の先にある、一億通りの分岐を再計算しろ!)


 ゼノスの脳内クロックが、未知の恐怖と期待によって限界まで跳ね上がる。アスカが放った「稚拙なノイズ」が、彼の完璧な思考回路の中に、解くことのできない猛毒を注入した。数万手先まで読み切ったはずの彼の「正解」が、その一点の歪みによって音を立てて崩れていく。


「……ゼノス? どうしたの……? 早く、指せばいいじゃない……」


 アスカの挑発的な呟き。それが決定打となった。


(笑止! 君が仕掛けたこの不自然な『空白』、その裏側にある真実を暴いてからでも、勝利は遅くない!)


 ゼノスは「確実な勝利」を捨て、アスカのミスが意図する「さらに深層の罠」を解明しようと、自らの全演算能力をその一点に集中させた。そして――彼は、深読みしすぎたがゆえに、自ら守備の薄い地点へ駒を動かすという致命的な「差し間違い」を犯した。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【大逆転のデバッグ】


「……あっ」


 ゼノスが指を離した瞬間、盤面の空気が一変した。神の一手のように、アスカの駒が最短ルートでゼノスの『王将』の喉元へ突き刺さる。


「……かかったわね、皇帝。……知能が高すぎる者の弱点は、何もない場所に『意味』を見出してしまうことよ。そしてもう一つ、あなたが計算を深読みし、脳のリソースをその一点に集中させていた間……」


 アスカがゆっくりと顔を上げた。その瞳に宿っていた疲労の光は消え、冷徹な勝利の確信が宿っている。


「……私の真の術式は、盤上ではなく、あなたの背後――この『法陣の心臓』そのものに接続されていたわ」


「……何だと……!?」


 ゼノスが驚愕して周囲を見渡した瞬間、地下空洞の魔導回路が、黄金色からアスカの色――冷たい白銀色へと一斉に書き換えられた。アスカは対局の思考負荷を逆手に取り、ゼノスが自分の「ミス」を深読みしてフリーズしている隙に、帝国の国家システムそのものをハッキング(デバッグ)し、管理者権限を奪い取っていたのだ。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【ラストシーン】


「……詰みね。……これは将棋の結末だけではなく、あなたの『独裁システム』の強制終了通知よ、ゼノス」


 アスカが指を鳴らした瞬間、皇帝の玉座を象徴する黄金の駒が、盤上から音もなく消滅した。 光を失った地下空洞で、アスカの黒髪だけが、静かに、そして誇らしげに揺れていた。 完璧な皇帝が、アスカの「不完全を装った知略」の前に、盤上と国家の両方で同時に敗北し、膝を屈した瞬間だった。


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