第60話:アスカのストレス限界
【舞台:帝都宮殿・アスカの執務室】
帝都に滞在して一週間。白亜の宮殿内に用意された最高級の客室は、アスカにとって今や、豪華絢爛な「思考の牢獄」と化していた。窓から見える春の帝都は美しいはずだが、彼女の瞳には今や、空中に展開された数式とゼノスの不敵な微笑みしか映っていない。
深夜、贅を尽くした執務室には、羽ペンの走る音と、アスカの短く苛烈なため息だけが響いていた。机の上には、ゼノスから届けられた「課題」という名の嫌がらせ――羊皮紙の山が積み上がっている。
「……あいつ、正気じゃないわ。この魔導回路の分配モデル、変数が無限回帰している……。解くたびに新しいバグを生成するように設計されているなんて、非論理的の極みよ」
アスカの黒髪は乱れ、瞳には知的な疲労による隈が微かに浮かんでいた。そこへ、音もなく扉が開き、リサがお盆を手に現れる。
「アスカ、まだ起きてるの? もう三日もまともに寝てないじゃない」
「リサ、邪魔しないで。今、私の脳内メモリは98%がこの『帝国全体の魔力平衡公式』に占有されているのよ。……あいつ、ゼノスは……私に『正解』ではなく、『終わりのない演算』を強制しているわ」
「やっぱりそうよ! あの変態、あなたの思考を独占して、自分以外のことに関心を持たせないようにしてるのよ。アスカ、もうやめなさい!」
リサが強引に羊皮紙を取り上げようとしたが、アスカはそれを拒んだ。
「……できないわ。解けない問題があるという事実は、私の存在証明に対する致命的なエラーなのよ。……くっ、この皇帝、私のプライドの所在を正確にデバッグしてきているわね……!」
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【皇帝の深夜訪問】
「――おやおや、まだ起きていたのか。私の贈った『パズル』が、それほどまでに君を魅了しているとは光栄だよ」
声の主は、月光を背負ってバルコニーから現れたゼノスだった。彼は部屋の主であるアスカの許可も得ず、優雅にソファーへ腰を下ろす。
「ゼノス……。あなた、不法侵入よ。あなたの倫理回路は完全に破損しているのかしら?」
「失礼だね。私はただ、君の脳が焼き切れていないか心配でね。……どうだい、アスカ。その数式に『正解』は見つかったかな?」
「……存在しないわ。このモデルは、どの変数を選んでも必ずどこかの層で崩壊が起きるように組まれている。……これは魔法ではなく、悪意の塊よ」
「ははは! 正解だ。だが、現実の統治も同じだよ。完璧な正解などどこにもない。……アスカ、君はいつも一瞬で答えを出してしまう。だから私は、君に『悩み、惑い、私という問いに囚われる時間』をプレゼントしたかったのさ」
ゼノスは立ち上がり、アスカの机に指先を滑らせる。
「君の脳が、私の与えた難問で埋め尽くされている。……実に甘美な光景だと思わないか?」
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【限界の爆発】
「……黙れ」
アスカの声が、氷点下まで凍りついた。彼女はガタッと椅子を蹴り飛ばし、立ち上がる。
「あなたのその、優雅さを装った精神的侵食……。私の知性を愛でているフリをして、その実、自由を奪おうとする卑劣な演算……。不快よ。反吐が出るほど不快だわ、ゼノス!!」
アスカの手元で魔力が暴走し、周囲のインク瓶が粉々に砕け散った。黒髪が激しく逆立ち、白銀のドレスが憤怒の光を放つ。
「私はあなたの所有物じゃない。……あなたの『退屈』を埋めるための、暇つぶしの演算機でもない! 私は……私は、私のために考えるのよ!」
「……ああ、そうだ。その表情、その苛立ち。それこそが人間らしい揺らぎだ、アスカ」
ゼノスは激しい魔圧を浴びながらも、うっとりとした表情で彼女を見つめた。
「もっと私を憎みなさい。もっと私を拒絶しなさい。……その思考の全てが私に向けられている限り、私は満足だ」
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【ラストシーン】
ゼノスが去った後、静まり返った部屋で、アスカは机に突っ伏して震えていた。 リサがそっと背中に手を置くが、アスカはその手を握り返す力さえ残っていなかった。
「……リサ。私、あいつに……脳の深層までデバッグされているような気がする。……悔しい。あんな、あんな男に……私の論理をかき乱されるなんて……」
月明かりの下、散乱した羊皮紙の中で、アスカの黒髪が力なく広がっている。 これまでにない「敗北感」に近い疲労が、最強の賢者の心を蝕んでいた。
「……絶対に……許さない。……あなたのその余裕、私が地獄の底までデバッグしてあげる……」
アスカの掠れた誓いは、春の夜の闇に虚しく吸い込まれていった。




