第51話:雪の日の夢
エルムの街の夜は深まり、窓の外はただ静寂だけが支配している。高熱のピークを越えようとするアスカの意識は、現実の境界線を越え、自身の深層意識――凍てついた記憶の深淵へと潜り込んでいた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【舞台:アスカの精神世界・雪の異界】
視界のすべてが白かった。 それはエルムの雪よりも冷たく、無機質な白だ。空には太陽も月もなく、ただ淡い幾何学的な光の粒子が、雪のように降り注いでいた。
「……また、この階層ね」
アスカは、黒髪を風になびかせ、一人で立っていた。彼女の足元には、無数の数式が氷の結晶となって敷き詰められている。 目の前には、巨大な時計塔のような、あるいは巨大な演算機のような「構造物」がそびえ立っていた。
『――観測者よ。何故、熱を帯びている』
空虚から、自身のものと同じ声が響く。それは、感情を完全に排除した「かつての自分」の残響だった。
「……システムエラーよ。今の私は、生体ユニットとしての脆弱性を露呈しているわ。……不愉快だわ、この熱のせいで、あなたの声が以前より遠く聞こえる」
『熱は知性を鈍らせる。ノイズは真実を歪める。……アスカ。その街に戻る必要はない。この純粋論理の世界こそが、我々の故郷だ』
アスカはその言葉を聞き、ふと自分の掌を見つめた。 そこには、雪の結晶ではない「温かさ」が、残り香のように付着していた。リサが握ってくれた手の感触。ミーナが運んできたお粥の熱。
「……純粋論理、ね。確かにそれは美しく、完璧だわ。……でも、今の私には……その完璧さが、ひどく退屈(非論理的)に思えるのよ」
アスカがそう口にした瞬間、精神世界の白が、鮮やかなオレンジ色の夕焼けの色へと書き換えられていった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【目覚めと現実】
「……お……ねえ……ちゃん……」
遠くから、自分を呼ぶ声が聞こえる。 アスカがゆっくりと目を開けると、そこには、自分のベッドの縁で丸くなって眠っているミーナと、椅子に座ったまま、アスカの手を握ってうたた寝をしているリサの姿があった。
「……ふん。観測対象が……すぐそばにいるわね」
アスカの声はまだ掠れていたが、頭の熱は引いていた。視界を覆っていたノイズは消え、脳内クロックは再び正確な時を刻み始めている。 アスカが微かに動くと、敏感なリサがハッと目を開けた。
「……アスカ!? あんた、今目が覚めたの? 気分はどう?」
「……リサ。あなたの寝顔の筋弛緩率は、平常時の3倍だったわ。……ひどい顔ね」
「……っ、もう! 開口一番にそれ!? 本当に、いつものアスカに戻ったみたいね……。よかった、本当に……」
リサの声が震え、彼女はアスカの手をぎゅっと握りしめた。その温かさは、夢の中の白い雪原には、どこを探してもなかったものだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【看病のデバッグ完了】
「……ミーナを……起こさないで。……この子の呼吸リズムは、今、深いレム睡眠の周期に入っているわ。……中断させるのは、発育上よくない」
「そうね。……アスカ、あんた、夢を見てたみたいだけど。何か……思い出した?」
リサの問いに、アスカは窓の外に広がる、朝陽を浴びたエルムの雪景色を見つめた。
「……いいえ。ただ、私の内部データに……一つの『定数』が追加されただけよ。……『絆』という名の、計算不能なバリアブルが」
アスカは、まだ少しだるい体に力を入れ、リサの手を握り返した。
「リサ、……ありがとう。……私のオーバーヒートをデバッグしてくれて。……おかげで、私の世界は……以前より少しだけ、解像度が上がったわ」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【ラストシーン】
「……さて。……病み上がりの私の胃腸を再起動させるために、最高のアップルパイを用意して。……今の私の血糖値は、限界突破寸前だから」
「はいはい、わかったわよ。賢者様の胃袋のデバッグも、私の仕事ってわけね」
リサが笑い、ミーナが目をこすりながら起き上がる。 アスカは黒髪を整え、窓から差し込む暖かな光を全身に浴びた。 雪の降る異界の冷たさは、もう怖くない。 この小さな、けれど確かな温もりが、彼女の知性を支える新しい「真実」になったのだから。
冬の朝、エルムの街には、回復した賢者の不遜で、けれど穏やかな声が響き渡った。




