第50話:看病のデバッグ
エルムの街を包む夜は、雪の結晶が月光を反射して静かに輝いている。しかし、古本屋『VOID』のキッチンでは、アスカの「命のデバッグ」を掲げた二人による、戦場さながらの調理(あるいは錬金術)が繰り広げられていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【舞台:古本屋『VOID』・キッチン】
「いい、ミーナ。アスカが以前言っていた『理想の経口補水液』の定義はこうよ。――『電解質濃度は血液と等張であり、かつ精神的安寧をもたらす天然の果糖が黄金比で配合されていること』。つまり、ただのリンゴジュースじゃダメなの!」
リサは魔導コンロの火を調整しながら、真剣な面持ちで鍋をかき混ぜていた。その横では、ミーナが正確に重さを量った蜂蜜を手に、緊張した面持ちで控えている。
「リサさん、蜂蜜の量は……ええと、0.01グラム単位まで合わせるんだよね? お姉ちゃん、元気な時に『誤差は悪意と同じよ』って言ってたから!」
「その通りよ。あいつ、病気になっても舌の感覚だけはデバッグされないからね。さあ、今よ! リンゴの絞り汁に、この『魔力活性化させた塩』を投入して!」
二人は、普段アスカが魔導具を組み立てる時のような、異常なまでの集中力で「看病食」を作り上げていく。キッチンには、甘酸っぱい香りと、リサが使う補助魔法の柔らかな光が満ちていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【アスカの夢と甘え】
二階の寝室。アスカは汗で濡れた黒髪を枕に散らし、荒い息をつきながら夢の淵を彷徨っていた。
「……計算が……合わない……。世界が、変数だらけ……」
アスカの手が空を掻く。そこへ、調理を終えたリサが戻ってきた。リサが濡れタオルを替えようと手を伸ばした瞬間、アスカはその腕を、驚くほど強い力で引き寄せた。
「……っ、リサ!? 行かないでって……言ったはず……。私の……観測範囲から、消えないで……」
アスカは目を開けないまま、リサの腕に頬を寄せた。その熱く火照った肌が、リサの腕を通じて「助けて」と叫んでいるようだった。
「はいはい、ここにいるわよ、アスカ。あんたが作った『イージス(こたつ)』のせいで、私の服まで温まっちゃってるんだから、どこにも行けないわよ」
「……リサは……非論理的なまでに……お節介……。でも……そのエラーが……今の私の……演算には……必要不可欠……」
アスカはリサの袖をギュッと握りしめたまま、うわ言のように続ける。
「……ミーナにも……伝えて……。お粥の……お礼は……知性で返す……から……。今は……ただ……そばに……」
その言葉に、後ろで控えていたミーナの目から、ポロリと涙がこぼれた。
「お姉ちゃん……。お礼なんていいよ。早く元気になって、また理屈っぽいこと言ってよぉ……」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【看病の成果】
リサとミーナが協力して作り上げた「特製栄養剤」を、スプーンで一口ずつアスカの唇に運ぶ。 意識が混濁しているはずのアスカだったが、その液体を飲み込んだ瞬間、喉が微かに鳴り、眉間の険しさが少しだけ和らいだ。
「……甘い……。……計算通りの……糖度……。……ううん……計算よりも……ずっと……」
アスカは満足げに呼吸を整え、再び深い眠りへと落ちていった。今度はうなされることもなく、穏やかな、深い眠りだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【ラストシーン】
深夜。部屋の灯りを落とし、小さな魔導ランプの光だけが室内を照らしていた。 アスカの寝顔を見守りながら、リサとミーナはベッドの脇で小さく寄り添っていた。
「リサさん、お姉ちゃん、明日は良くなるかな?」
「ええ、あんなに完璧なデバッグ(看病)をしたんだもの。明日の朝には、いつもの『お粥の炊き方がなっていないわね』っていう憎まれ口が聞けるはずよ」
リサはそう言って、アスカの手を握り直した。 窓の外、エルムの街には、アスカがかつて救った光のような、美しい満天の星空が広がっている。 どんなに強力な結界よりも、どんなに高度な魔導よりも。 二人の愛情という名の「非論理的な変数」が、賢者の熱を、ゆっくりと、けれど確実に、夜の向こう側へと溶かしていった。
アスカの寝顔は、あどけない少女のように穏やかだった。




