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第48話:脱出不能の事象の地平線

 雪はエルムの街を包み込むように静かに降り、古本屋『VOID』の窓の外は、深い雪が世界の色を奪い去っていた。しかし、暖炉の火さえも不要なほど、魔導こたつ「イージス」を中心としたリビングは、アスカの執念が結晶化した「絶対温度」に満たされていた。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【舞台:古本屋『VOID』・リビング】


 こたつを導入してから一週間。最強の賢者アスカは、もはやその毛布の端から指先一本出すことすら拒んでいた。彼女の周囲には、魔導書、インク瓶、羽ペン、そして数日分のミカンの皮が、完璧な円環を描いて配置されている。


「……リサ。私の計算によれば、このこたつを中心とした半径1.5メートル圏内で、人間の生理学的欲求の98%は完結可能よ。残りの2%……つまり排泄と入浴についても、空間転送術式の効率化により、移動距離をゼロに近似できるわ」


 アスカは、黒髪を少し乱したまま、天板に広げた羊皮紙に凄まじい速度で数式を書き込んでいた。


「ちょっと、アスカ! あんた、さっきから何を書いてるのよ」


 リサが呆れ果てた声を出す。覗き込んだ羊皮紙のタイトルには、『こたつを基点とした永久居住型ライフサイクル・シミュレーション:ver. 1.0』と記されていた。


「……生涯設計よ。リサ、私は決めたわ。この冬が終わっても、私はこのこたつを解体しない。むしろ、この床下に魔力炉を直結し、国家予算規模の断熱結界を張る。……私はここで、世界で最も知的な『座礁したクジラ』として一生を終えるわ」


「バカなこと言ってないで立ちなさい! 街の子供たちが、雪だるま作りを教えてほしいって待ってるのよ!」


「断るわ。雪の中での結晶構造の構築なんて、非論理的よ。……ミーナ、私のコーヒーに角砂糖を追加して。座標は左から15度、投下速度は秒速2センチでお願い」


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【社会復帰への強硬手段】


「もう限界だわ……。ミーナ、レオン、カイル! 作戦開始よ!」


 リサの合図と共に、店の常連であるレオンとカイルがリビングへ踏み込んできた。


「アスカ、すまん! これも王国の……いや、エルムの未来のためなんだ!」


「な、何をするつもり……!? 接近を禁じるわ! パーソナルスペースに侵入しないで!」


 アスカが叫ぶが、レオンとカイルはアスカの両脇を抱え、文字通り「物理的」に引きずり出そうとした。しかし、アスカの執念はそれをも予測していた。


「……無駄よ。こたつと私の下半身は、既に空間固定術式で『重合』している。私を引きずり出すには、この建物ごと持ち上げる必要があるわ!」


「あんた、そこまでして外に出たくないの!?」


 リサが魔法で毛布を剥ぎ取ろうとするが、アスカは瞬時に「再帰的固定術式」を展開し、毛布を自分の体に固着させた。今や、アスカとこたつは一つの生命体のようになり、リビングの中央で絶対的な不動を貫いていた。


「……これが私の選んだ道。……重力の呪縛から解き放たれ、私はこたつの事象の地平線へと消える……」


「お姉ちゃん……。そんなにこたつが大事なら、私が特別な魔法を使ってあげる!」


 ミーナが、悪戯っぽく微笑みながら手にしていたのは、一皿の香ばしい匂いを放つ「焼きたてのアップルパイ」だった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【知性の敗北】


「……っ!? ……その香りの成分、シナモンとリンゴの比率が完璧だわ。……でも無駄よ。パイの方から私の口内へ転送されてきなさい」


「ダメだよ。これは外のテラスで、雪景色を見ながら食べるのが一番美味しいんだから! ほら、外の空気で冷やされたパイと、熱い紅茶の組み合わせ……お姉ちゃんなら、その『温度差の美学』がわかるでしょ?」


 アスカの眉が、ピクリと動いた。 パイの香りが、彼女の「こたつ絶対主義」という鉄の論理を、根底から揺さぶり始める。


「……温度差……。熱力学的なコントラストが、味覚受容体に与える刺激の最大化……。……っ、非論理的だわ。……パイが、私の計算を狂わせている……!」


 アスカの身体が、微かに震え始めた。空間固定術式に「揺らぎ」が生じる。


「さあ、アスカ! 外はもう、綺麗な夕焼けよ! 吹雪も止んだわ!」


 リサが勢いよく、リビングの重厚なカーテンを引いた。 そこには、一面の銀世界をオレンジ色に染め上げる、息を呑むほど美しい夕景が広がっていた。雪原に反射する光が、アスカの瞳に飛び込む。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【ラストシーン】


「……っ。……計算違いよ。夕焼けのルクス値が、私の網膜の許容範囲を超えているわ」


 アスカは毒づきながらも、ついに自らの手で「空間固定」を解除した。 彼女は白銀のドレス(最強の法衣)の裾を整え、おぼつかない足取りでこたつの外へと踏み出した。数日ぶりに浴びる冷気が、火照った体に心地よい緊張感を与える。


「……リサ。勘違いしないで。私は、パイの糖分を効率よく摂取するために、最適な環境へ移動するだけよ」


 アスカはそう言い捨てると、テラスの椅子に腰を下ろし、ミーナからパイを受け取った。 黒髪を夕風になびかせ、冷えた空気の中で熱々のパイを頬張るアスカ。その表情には、こたつの中にいた時とは違う、凛とした美しさが戻っていた。


「……ふん。悪くないわね。……この温度差、10点満点中、8.2点といったところかしら」


 最強の賢者が、パイ一つのために「生涯設計」をあっさり破棄した瞬間。 冬のエルムの静寂の中に、リサたちの笑い声と、アスカの不機嫌そうでいて満足げな鼻鳴らしが、温かく溶け込んでいった。


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