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第47話:蜜柑(ミカン)の重力緩和

 エルムの街を包む吹雪はさらに激しさを増し、古本屋『VOID』の建物全体が、冷たい風の咆哮に震えていた。しかし、リビングに鎮座する魔導こたつ「イージス」の内部は、アスカの演算によって維持される「38.5度の聖域」であり続けていた。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【舞台:古本屋『VOID』・リビング】


 アスカは、こたつの天板に顎を乗せ、虚空を一点に見つめていた。その視線の先にあるのは、リビングの反対側の棚に置かれた、山盛りの「冬の味覚」――ミカンの入ったカゴだった。 本来なら、こたつを少し抜け出して数歩歩けば済む距離である。しかし、アスカにとって、それは「生存圏の喪失」を意味していた。


「……計算不能だわ。この数センチの断熱境界線を越えた瞬間に待ち受ける、マイナス15度の温度勾配。私の筋肉が収縮し、思考回路が凍結するリスクを冒してまで、自力でミカンを取りに行くのは、経済学的に見て純損失でしかない」


「アスカ……あんた、さっきから何をぶつぶつ言ってるのよ」


 リサが呆れたように、こたつの隣で編み物をしながら声をかけた。アスカの黒髪はこたつの熱気で少し湿り、その瞳には異様なまでの執念が宿っていた。


「……リサ。私は今、重力定数を局所的に書き換えるシミュレーションを行っているの。あのカゴを、このこたつの中心座標へと『滑らせる』ために」


「いや、立ちなさいよ。ほんの三歩でしょ?」


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【無駄な魔導の極致】


「黙って。……術式展開。局所的重力勾配の再定義。……ターゲット、座標(12.55, 8.42)にあるオレンジ色の球体群」


 アスカが指先を小さく動かすと、部屋の空気が一瞬だけ歪んだ。 棚の上にあるミカンのカゴが、まるで意思を持ったかのように浮き上がり、ゆっくりと空中を滑り始めた。しかし、アスカの精密すぎる演算が裏目に出た。


「……っ。気圧の変化による空気抵抗を無視していたわ。……軌道修正。慣性制御を追加」


「ちょっと待ちなさい! ミカンのために、国家防衛級の空間操作魔法を使わないで! 部屋の結界が悲鳴を上げてるわよ!」


「……うるさいわぇ。これは『効率』の追求。……あっ、シュシュ! 邪魔しないで!」


 空中でふわりと浮いていたミカンのカゴに、興味を惹かれた黒猫のシュシュが飛びついた。その結果、演算が狂い、ミカンはカゴから飛び出し、リビングの天井付近を衛星のように周回し始めた。


「……っ。空間転送テレポートに切り替え。……対象を特定。ミカンAからF。……座標変換開始」


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【転送の誤算】


 アスカが指を弾くと、天井を回っていたミカンが消失した。 次の瞬間。


 ――ポスン。


 アスカの頭の上に、冷えたミカンが一つ、正確に着地した。


「……座標のZ軸が、10センチ高かったようね」


「だから手で取りなさいって言ってるでしょ! 魔法でミカンを頭に乗せてどうするのよ!」


「……リサ、あなたは分かっていない。これは『非接触型供給システム』の実験なの。……ほら、次のミカンは……っ!?」


 アスカが次の転送を試みた瞬間、こたつの中の熱気が魔力と干渉し、想定外の事象を引き起こした。転送されたミカンが、アスカの口の真ん前に、皮が剥かれた状態で出現したのだ。


「……えっ。……皮の剥離プロセスまで、魔力が勝手にデバッグしたというの……?」


「あんたの『こたつから出たくない執念』が、魔法の法則さえ歪めたわね……」


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【ラストシーン】


 結局、アスカの周囲には、無駄に高度な魔法によって運ばれ、完璧な幾何学模様で並べられたミカンの山が築かれた。アスカは満足げに鼻を鳴らし、その中の一つを口に運んだ。


「……ふん。見て、リサ。一歩も動かずに、ビタミンCの摂取に成功したわ。これこそが、知性の勝利よ」


「はいはい、勝利ね。……でもアスカ、見てごらんなさい」


 リサが指差したのは、アスカの足元だった。 高度な重力操作の影響で、こたつの毛布の端が少し捲れ、そこからエルムの冬の極寒が容赦なく入り込んでいた。


「……っ!? ……さ、寒い……!! 境界線が、崩壊している……!」


「ミカンを運ぶのに夢中で、自分の『足元のデバッグ』を忘れるなんて。賢者様も形無しね」


 アスカは顔を真っ赤にし、慌てて毛布を引っ張り込んだ。最強の魔導を駆使してミカンを手に入れた代償は、聖域の崩壊という手痛い「計算ミス」だった。 黒髪を振り乱し、こたつの隅に丸くなる賢者の姿に、リサの笑い声が吹雪の音をかき消すように響き渡った。


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