第1話:辺境の古本屋と、騒がしい春の音
【舞台:辺境の街エルム・古本屋『VOID』】
あれから3年後・・・
石畳の路地裏に、ひっそりと佇む一軒の店がある。
看板には、色褪せた文字で『VOID(虚無)』とだけ書かれていた。
店内に一歩足を踏み入れれば、そこには古い紙とインクの香りが立ち込めている。高い天井まで届く本棚には、歴史書から魔導書、果ては三流の恋愛小説までが整然と並んでいた。
その中心にあるカウンターで、店主のアスカは黒髪をポニーテールにまとめ、突っ伏していた。
「……アスカ様、また死んでいるのですかニャ? 起きてくださいニャ、営業開始から三時間が経過していますニャ」
カウンターの上で、黒猫のシュシュがアスカの耳元で「ニャー、ニャー」と執拗に鳴き声を上げる。
「……シュシュ、静かにして。今は、脳内のメモリを最適化してるの。……要するに、二度寝中」
「二十歳にもなって、二度寝を最適化などと言わないでほしいですニャ! 伝説の賢者が聞いて呆れますニャ。ほら、隣の元気なのがやって来ましたニャ!」
カランカラン、と軽快なドアベルの音が店内に響き渡る。
「アスカお姉ちゃーん! 生きてるー!?」
扉を勢いよく開けて入ってきたのは、隣家に住む少女、ミーナだった。
「……ミーナ、声が大きい。鼓膜の振動が脳に直接響くわ」
アスカは顔を上げず、気だるそうに指先だけを動かして「静寂」の魔法を一瞬展開しかけ、すぐに止めた。
「えへへ、ごめんね! お母さんがね、焼きたてのベリータルトを焼いたから、お裾分け! はい、これ!」
ミーナがカウンターに置いた皿からは、甘酸っぱい香りが漂ってくる。アスカの鼻先が、わずかにピクリと動いた。
「……タルト。……ふうん。……成分表は? 砂糖の含有量は、私の健康管理基準をクリアしてるのかしら」
「難しいこと言わないでよー! ほら、お姉ちゃんの好きな酸っぱいやつだよ!」
アスカはゆっくりと上体を起こした。艶やかな黒髪がさらりと肩から流れ落ち、深い黒の瞳がタルトをじっと見つめる。
「わあ……お姉ちゃん、今日もすっごく綺麗。本を読んでる時、本当にお姫様みたい!」
「……お辞辞はいらないわ。視線でマナが干渉して、そのタルトの糖分が変質しちゃうかもしれないから。……許可するわ、そこに置いておきなさい」
アスカは無表情のままタルトを一口運ぶ。サクッ、という軽やかな音が響く。
「……味は、まあ……落第点ではないわね。……ただ、あと3分早くオーブンから出していれば、メイラード反応が完璧だったわ。……明日からは、私がタイマーを設定しに行ってあげてもいいけど」
「えっ! お姉ちゃん、うちに教えに来てくれるの!? やったー!」
「……勘違いしないで。非効率な調理法を見るのが耐えられないだけ」
「……さあ、食べたなら早く帰りなさい。次の読書スケジュールが詰まってるの。私の時間は、あなたみたいな暇人と違ってミリ秒単位で管理されているんだから」
アスカは、羽のように軽い手つきでミーナの背中を押し、半ば追い出すようにして店の重い樫の扉を閉めた。カランカラン、と寂しげにドアベルが鳴り、再び店内に静寂が戻る。
「アスカ様、本当はミーナ様が来るのを待っていたくせに、相変わらず素直じゃありませんニャ」
カウンターの上で、シュシュがニヤニヤとした表情(猫には可能なのだ)でアスカを見上げている。
「……黙って、シュシュ。私はただ、次の難解な魔導書を読み解くために、脳が糖分を要求していただけよ。効率化の一環。それ以上でも以下でもないわ」
アスカはそう言い捨てると、カウンターの奥から小さなフォークを取り出し、残されたタルトを口に運んだ。 サクッ、という心地よい音と共に、甘酸っぱいベリーの果汁と、家庭的な温かいバターの香りが口いっぱいに広がる。
「…………」
アスカは無言のまま、数秒間動きを止めた。 あらゆる事象を数式で処理してきた彼女にとって、この「割り切れない、手作りゆえの味のムラ」は、本来なら嫌悪すべき非効率の産物のはずだった。
だが、彼女はその「非効率」を愛おしむように、ゆっくりと咀嚼する。
「……シュシュ。このタルト、やっぱり焼きすぎよ。メイラード反応が進みすぎて、分子構造が少しだけ苦味に寄ってる」
「そうですニャ? ボクには、ミーナ様の『お姉ちゃん大好き』という隠し味が強すぎて、胸焼けしそうですニャ」
「……変なこと言わないで。……でも」
アスカは、黒髪の隙間から窓の外を見やった。 遠ざかっていくミーナの鼻歌が聞こえる。街の平和を、自分の正体を知らずに笑いかけてくれる隣人を、アスカは魔法ではなく、ただの「二十歳の古本屋」の瞳で見守っていた。
「……でも、この街の『退屈』を維持するためなら、たまにはこれくらい非効率な燃料を摂取するのも、悪くないかもしれないわね」
アスカは最後の一口を飲み込むと、誰に見せるでもなく、ほんの少しだけ口角を上げた。 その小さな微笑みは、世界を救った最強の魔法よりも、ずっと温かく、静かな光を宿していた。
「さて、シュシュ。……お昼寝の続きの前に、一冊だけ読みましょうか」
アスカは再び、黒髪を揺らして魔導書を広げる。 エルムの街の春は、彼女が望んだ通り、どこまでも穏やかに過ぎていこうとしていた。
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