プロローグ:Episode 0 終焉をデリートする
【舞台:魔王城最深部・虚無の玉座】
天を突く黒水晶の柱が次々と崩落し、大気が悲鳴を上げている。立ち込める魔力の残滓は紫色の稲妻となって走り、勇者レオンの身体を容赦なく打ち据えていた。
「ハァ……ハァ……っ! まだだ……まだ、終わらせるわけにはいかない……!」
レオンの金髪は血と汗でべったりとはりつき、その手に握られた聖剣は激しい衝撃でその半分を失っている。対峙するのは、生ける災厄。数多の神話を終わらせてきた魔王。その巨大な影がレオンを飲み込もうとした、その時。
「……レオン。あと何回、その無駄な突撃を繰り返すつもり?」
静寂。
荒れ狂う嵐の中で、そこだけが真空になったかのような、透き通った低い声が響いた。
瓦礫の山に腰を下ろしているのは、十七歳の少女。
艶やかな黒髪を夜風になびかせ、彼女は黒い瞳で退屈そうに古びた魔導書をめくっていた。その佇まいは、戦場にあってなお、一編の詩のように静謐だ。
「ア、アスカ……!? 逃げろと言ったはずだ! ここは……世界が崩壊する特異点なんだぞ!」
「アスカ様、勇者様は相変わらず話を聞かない男ですニャ。自分のHPが残り3%なのも気づいていないみたいですニャ。救いようのない単細胞ですニャ」
アスカの肩の上で、黒猫のシュシュが前足で顔を洗いながらあくびをした。
「シュシュ、3%じゃなくて2.8%よ。四捨五入して安心させるのは逆効果。……それより、魔王さん」
アスカはパタン、と静かに本を閉じ、立ち上がった。彼女が放つ圧倒的な存在感に、その場に満ちていた絶望的な重圧が、まるで主を見つけたかのように沈黙する。
「貴様……。なぜ、我が魔王領域の中でそれほどまでに『無』でいられる……。なぜ、その瞳に我を映さぬか!」
「映す価値がないのよ。あなたの術式、12層構造の多重展開……一見複雑そうだけど、計算式がひどく冗長。まだそんな『タイパ』の悪い魔法を使ってるの? 呆れるわ。……美しくないのよ、すべてが」
アスカは冷ややかな瞳で、魔王の構成要素を直接見透かすように細めた。
「な……何だと……っ!?」
「……シュシュ、耳を塞いで。少しノイズが出るから」
「アスカ様、了解ですニャ! 後で耳掃除、お願いしたいですニャ!」
アスカは一歩、前へ踏み出す。その瞬間、彼女を中心に幾何学的な紋様が――いや、それはもはや魔導陣ですらなかった。世界の理を直接書き換える「数式」が虚空に浮上する。
「事象定義の書き換え(オーバーライト)。……『魔王』という概念を、この世界のログから永久抹消。……デリート」
アスカが細い指先を、冷淡に弾いた。
「――ッ!?」
声にならない絶叫。
魔王の巨体は、炎に焼かれることも、剣に斬られることもなく、ただ「そこには最初から何もいなかった」かのように、端から静かに透き通って消えていく。魔力の暴走も、爆発もない。ただ圧倒的な「知性」による強制処理。
「……あ……あ……」
レオンが呆然と立ち尽くす中、世界を覆っていた暗雲が割れ、一筋の月光がアスカを照らした。彼女の黒髪が銀色に縁取られ、その瞳が神秘的な光を宿す。
「アスカ……君は……一体、何を……」
「……お掃除。……レオン、あとの後始末は任せるわ。私はもう、静かな場所でお昼寝がしたいの。……美味しいアップルパイを食べながら、誰にも邪魔されない場所で」
「アスカ様、最高にクールですニャ! 早く帰りましょうニャ、お腹が空きましたニャ!」
アスカは一度も後ろを振り返ることなく、崩れゆく城の中を悠然と歩き去る。
これが、史上最強の賢者が「隠居」を決めた、ある夜の出来事だった。
いよいよ物語が始まりました! 本日10話まで一挙公開予定です。
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