第154話:初めてのパン買い出し
【舞台:エルムの街・大通り ―― 異色すぎる二人連れ】
柔らかな春の陽光が、エルムの街の石畳を黄金色に染めていた。 古本屋『VOID』の店先で、アスカは腕を組み、目の前の「新人店員」を厳しい目で見つめていた。
「いい、ステラ。今日のあんたの任務はただ一つ。ミーナと一緒にパン屋へ行って、晩ごはんのバゲットを三本買ってくること。……余計な演算はしない。因果律の修正もしない。いいわね?」
「第108号。その命令は極めて非効率だわ。物質転送を使用すれば、0.2秒で完了する案件よ」
ステラが、支給された買い物カゴを無機質な手つきで持ち、淡々と答える。彼女の隣では、旅立ちを控えたミーナが、期待と不安の入り混じった顔で笑っていた。
「あはは……。お姉ちゃん、大丈夫。私がちゃんとステラさんのガイドをするから。ね、ステラさん、行こう!」
「……理解不能。だが、命令なら遂行するわ」
こうして、元神様と魔法使い見習いという、世界で最も危険(かつ風変わり)な買い出しが始まった。
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【舞台:市場 ―― 神の正論、市場を凍らせる】
大通りには活気ある声が飛び交っていた。 だが、ステラが一歩市場に踏み出すと、周囲の空気が急速に「解析」され、凍りついていく。
「お嬢ちゃんたち、いらっしゃい! 獲れたてのリンゴだよ。世界で一番甘いよ!」
陽気な果物屋の親父が声をかけた。それが悲劇の始まりだった。
「――虚偽を確認」
ステラがぴたりと足を止め、無機質な瞳で親父を射抜いた。
「このリンゴの糖度は12.5度。高級品種、あるいは私のデータベースにある黄金林檎と比較しても、世界一である確率は0.00001パーセント以下。誇大広告は、経済活動における情報の非対称性を悪化させるノイズだわ。訂正を求めるわ」
「え……? あ、いや、それは商売上の……」
「さらに、この奥にある三つは鮮度が18パーセント低下している。廃棄、あるいは価格の適正化を行うべきよ」
「ステ、ステラさん! やめて、それは言っちゃダメなやつだよ!」
ミーナが慌ててステラの口を塞ごうとするが、ステラは止まらない。彼女にとって「事実」を伏せることは、世界の理を汚すことに等しかった。
「事実を指摘して、なぜ謝罪を求められるのか理解に苦しむわ。……不合理だわ、人間」
ステラは不満げに小首を傾げた。背後では、親父が真っ白に燃え尽き、市場の活気が目に見えて減退していく音がした。
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【舞台:パン屋『黄金の麦』 ―― 焼きたての不条理】
ようやく目的地であるパン屋に辿り着いた頃、ミーナは精神的にボロボロになっていた。
「いらっしゃい! あら、ミーナちゃん。それと……綺麗な店員さんね」
店主の夫人が笑顔で迎えてくれる。芳醇なバターと香ばしい小麦の香りが店内を満たしており、これにはさすがのステラも、微かに鼻を動かした。
「バゲットを三本、ください!」
ミーナが注文すると、夫人は一番形のいい三本を選んで差し出した。
「はい、おまけで小さいクロワッサンを一つ付けておくわね。ミーナちゃん、帝国へ行っちゃうんでしょう? 寂しくなるわ」
「わあ、ありがとう! ……ほら、ステラさん。これが人間の『温かさ』だよ」
ミーナが誇らしげに教えると、ステラは三本のパンを凝視し、またしても致命的な一言を放った。
「――不公平だわ」
「えっ」
「計量の結果、このクロワッサン一ひとつの質量は、他者が支払う対価に対して余剰なリソース。……店主。この『おまけ』というシステムは、在庫管理における致命的なエラーであり、他の客に対する不平等な差別行為に該当するわ。直ちにこの余剰分を回収し、帳簿上の数値を整合させるべきよ」
店内の時間が止まった。 夫人の笑顔が凍りつき、買い物をしていた他の客たちが一斉にこちらを振り返る。
「……ステラ。あんた、何言ってるの……?」
聞き覚えのある、けれど絶対に今ここで聞きたくない声が背後からした。
振り返ると、そこにはシュシュを肩に乗せたアスカが、眉間に深い皺を寄せて立っている。
「ニャー……やっぱりこうなりましたニャ。ステラ様の『正論』は、世の中をギスギスさせる天才的才能がありますニャ」
シュシュが呆れたように前足で顔を覆う。
「第108号。私は正当な論理を……」
「黙りなさい! 論理じゃなくて空気を読みなさいって言ったでしょ!!」
アスカの説教がパン屋の中に響き渡った。
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【ラストシーン:夕暮れのバゲット】
帰り道、夕日に照らされたエルムの街。 ステラはカゴに入った三本のバゲット(とおまけのクロワッサン)を抱え、トボトボと歩くアスカとミーナの少し後ろを歩いていた。
「……ねえ、ステラさん」
ミーナが、自分の分のクロワッサンを小さくちぎって、ステラの口元に差し出した。
「食べてみて。理屈じゃなくて、味でわかるはずだから」
ステラは無表情のまま、その欠片を口に含んだ。 咀嚼し、嚥下する。
「……18パーセント、糖分と油脂の過剰摂取ね。……けれど」
ステラは、バゲットを抱える腕に少しだけ力を込めた。
「……食道を通る際に、胸の奥の演算回路が……少しだけ、熱を持ったような気がするわ。これが、不合理な『おまけ』の正体かしら」
「そうだよ。それが『美味しい』っていう魔法」
ミーナが笑う。
「……バグだわ。けれど、悪くないエラーね。記録しておきましょう」
ステラの瞳に、夕日の黄金色が映り込む。 神の正論が、人間の温もりに一敗地にまみれた、小さな春の夕暮れ。 古本屋『VOID』へと続く道には、香ばしいパンの匂いと、少しだけ「人間」に近づいた元神様の、静かな足音が響いていた。




