第152話:神様、新人店員になる
【舞台:古本屋『VOID』 ―― 春の午後の惨劇】
エルムの街に春が訪れ、古本屋『VOID』の店先には、冬の終わりの湿り気を帯びた埃の匂いではなく、若草の香りが微かに漂っていた。
だが、平和なはずの店内には、今、物質が原子レベルで崩壊するような絶望的な破壊の音が響き渡っていた。
――パキパキパキ
「……ステラ。あんた、今、何をしたの?」
カウンターの奥で、アスカが引き攣った笑みを浮かべ、手に持っていた羽ペンをミキリと鳴らした。 彼女の視線の先には、ステラが立っていた。髪を美しく編み込み、かつての神としての威厳を感じさせる顔立ち。だが、今の彼女は『VOID』の新人店員として、フリル付きのエプロンを――あろうことか、前後逆に着ている。
「第108号、質問の意図が不明確だわ。私はただ、店内の『不純物』を排除せよとの命令に従い、清掃プロトコルを実行したに過ぎないわ」
ステラが淡々と答える。彼女の足元には、希少本の『古代帝国の詩集(初版本)』がある。 ……いや、正しくはそこにあった。
ステラが指先で触れた希少本は、埃を消し去るという目的を超え、本そのものが「不純な有機物の集合体」として認識され、真っ白な虚無(塩)の山へと変貌していた。
「ニャ、ニャーーッ!? ボクの昼寝用のお気に入りの本が! 絶版の超レア本が、ただの食卓塩になってしまいましたニャーーッ!!」
カウンターの上で丸まっていた黒猫のシュシュが、毛を逆立てて絶叫した。彼は塩の山に飛びつき、涙目で前足をバタつかせている。
「ステラ……あのね。掃除っていうのは、物を消すことじゃないの。汚れだけを落として、物は残すの。幼稚園児でもわかる理屈よ?」
アスカがこめかみを押さえ、深いため息をついた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【舞台:キッチン ―― 合成される毒物】
「アスカ様、落ち着いてください。ステラ様も、まだ人間界の『加減』という変数を学習中なのですから」
奥のキッチンから、淹れたての紅茶の香りを漂わせながら、執事のゼノスが現れた。かつての皇帝としての威厳は、今や「完璧な執事」としての気品へと昇華されている。彼は慣れた手つきで、シュシュが散らかした塩を片付け始めた。
「ゼノス、甘いわよ。このままだと、明日にはこの店自体が『構造的な不純物』として消されかねないわ」
「ひどいわね、アスカ。でも、ステラも頑張ってるじゃない。ねえ?」
リサがキッチンの椅子にふんぞり返り、ゼノスが淹れた茶を啜りながら笑う。アスカの師匠は、このドタバタ劇を特等席で楽しんでいる。
「そうだ、ステラ。掃除がダメなら、料理を手伝いなさい。レイ、教えてあげて」
「はい! ステラさん、一緒にスープを作りましょう」
リサに呼ばれ、レイが明るい声を上げてステラの手を引いた。レイは聖女としての包容力で、元神様の無機質な心に寄り添おうとする。
だが、十分後。 キッチンからは、青白い燐光と、あり得ない化学反応の音が漏れてきた。
「……報告。タマネギの細胞壁を破壊し、アミノ酸を再構成。栄養価を300パーセントに引き上げた『究極の栄養液』が完成したわ」
ステラが差し出したのは、スープと呼ぶにはあまりにも発光しすぎている、粘り気のある液体だった。
「これ、スープじゃなくて液体燃料ですニャ。飲むと内臓がハッキングされそうな色がしてますニャ!」
シュシュが皿の端を嗅いで、即座に逃げ出した。
「ステラ。……あんた、全知全能は禁止だって言ったでしょ! 料理は化学合成じゃない、愛情よ! 手間暇よ!」
アスカの怒号が、再び店内に響き渡った。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【舞台:夕暮れのVOID ―― 不完全な日常】
結局、その日の業務は「ステラを椅子に縛り付けて座らせておく」というアスカの最終命令によって、ようやく平穏を取り戻した。
夕暮れ時、オレンジ色の光が店内に差し込む。 アスカとレイは、カウンターで今日の売り上げを確認し、ステラは店の隅で「愛とは何か」という難題について、虚空を見つめてフリーズしていた。
「アスカ、大変ですね。でも、なんだか賑やかでいいじゃないですか」
レイが、アスカの淹れた(まともな)紅茶を一口飲み、微笑んだ。
「賑やかすぎるわよ。……でも、そうね」
アスカは、奥でリサとゼノスが夕飯の献立で痴話喧嘩をしている声を聞きながら、ふっと表情を緩めた。
「神様がいなくなって、世界は不便で、不条理で、計算通りにいかないことばっかりになったわ。……でも、あの無機質な銀色の世界より、今の塩の山の方が、ずっとマシよ」
「……第108号。今の発言を解析したわ」
不意に、フリーズしていたステラが口を開いた。
「不条理であることを喜ぶという思考アルゴリズム……私にはまだ理解できない。けれど、この茶葉の『苦味』が心地よいと感じる現象については、興味深いバグとして記録しておくことにするわ」
ステラは、不器用な手つきで、少し冷めた紅茶を口にした。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【ラストシーン:明日への一歩】
「……明日こそ、まともな雑巾がけを教えるわ。できないなら、この元神様を学校にでも放り込むわよ」
アスカが毒づくと、シュシュが「それはかわいそうですニャ」と欠伸をした。
窓の外では、春の夜風が看板を優しく揺らしている。 神の管理を離れた世界は、今日も不完全で、騒がしく、そして愛おしい。 古本屋『VOID』の新しい一頁は、消し去ることのできない「失敗」と、黄金の「日常」に彩られて、静かに書き加えられていった。
アスカは、店の鍵を閉めながら、隣に立つ親友のレイに笑いかけた。
「さあ、夕飯にしましょう。ハンバーグ、焦げてなきゃいいけど」
「ふふ、今日はリサさんが作ってるなら、きっと大丈夫ですよ」
二人の笑い声が、夜の帳が降りたエルムの街に、小さな、けれど確かな光となって溶けていった。




