第142話:リサの残り香(絆のパッチ)
【舞台:氷の記録室 ―― 精神の侵食】
「無意味よ。その『心』と呼ぶバグを維持しようとする行為そのものが、宇宙の熱力学に反する無駄な演算だわ」
神ステラの声は、感情を一切排した銀の鈴の音のようにクリスタルの広間に響いた。 ステラが差し出した指先から放たれるのは、絶対的な「修正プログラム」の光。アスカの足元から這い上がった銀色の茨が、純白のドレスを締め上げ、彼女の意識の輪郭を削り取っていく。
「あ、あぁ……」
アスカの瞳から、急速に色が失われていく。 脳内では、膨大なログが「アスカ」という人格を上書きしようと荒れ狂っていた。リサと過ごした日々、ゼノスが作ってくれた温もりのある料理の数々、レイと交わした約束。それらがすべて、システムにとっての「不要なノイズ」として消去のリストに入れられていく。
「アスカ! しっかりしてください! アスカ!!」
レイが叫び、ドレスの袖を翻して駆け寄ろうとする。だが、ステラが視線を向けただけで、空間そのものが凍りつき、レイは一歩も動けぬまま透明な壁に弾き飛ばされた。
「……標的、未定義……。個体認識、喪失……」
アスカの口から、無機質な言葉がこぼれる。彼女の右手は、自らの自我を繋ぎ止めていた唯一の絆――リサの黒い魔導書を、力なく手放そうとしていた。
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【舞台:余白の暗号 ―― 論理を超えた言葉】
魔導書が地面に落ち、パラリと頁が捲れた。 その時だった。
上書きされゆくアスカの意識の深淵に、一筋の「ノイズ」が走った。 それは神ステラが展開する完璧な数式でも、宇宙の真理を説くログでもない。あまりにも稚拙で、乱暴で、そしてどうしようもなく温かい「手書きの文字」だった。
(……アスカ。今日の夕飯はゼノスが張り切って、あんたの嫌いなピーマンを肉詰めに隠すって言ってたわよ。残さず食べなさいよ)
アスカの視界が、一瞬だけ揺らいだ。
(あの偏屈な魔導師に貸した本、まだ返ってこないの。今度あんたが取りに行ってちょうだい。師匠のお願いは聞いてよね)
頁の余白に、びっしりと書き込まれた落書き。 それは、禁忌の魔術とは何の関係もない、リサという女性の、取るに足らない日常の記録。
「……リサ?」
アスカはしゃがみ込み、震える指で魔導書の頁をなぞった。
ステラの「正論」という名の光が、その文字を消し去ろうとする。だが、リサの文字は消えない。それどころか、支離滅裂な愚痴や、アスカの寝相の悪さへの文句、シュシュが花瓶を割ったことへの怒りといった「論理的ではないゴミデータ」が、アスカの欠落した記憶の穴に、強力な粘着力を持って貼り付いていく。
「何……これ。解析、不能……。どうして……こんな『無駄』なデータが、私のシステムログを弾き返しているの?」
「それはバグよ。致命的な、けれど愛おしい不具合」
アスカの声に、微かな熱が戻った。
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【舞台:師弟の絆 ―― 絆のパッチ】
アスカは魔導書を強く、胸に抱き寄せた。 リサは分かっていたのだ。いつかアスカが、完璧な「理」に直面し、自分を見失う日が来ることを。だからこそ、高次な魔術理論ではなく、システムが「解析する価値もない」と見捨てたはずの、ささやかな日常の記憶を、防壁としてこの本に刻み込んだのだ。
「アスカ……!」
拘束を逃れたレイが、アスカの元に膝をつき、その手を握る。
「思い出してください! リサさんが、どれだけアスカのことを……」
「ええ……。わかったわ、レイ。……この落書き、なんて支理滅裂なのかしら」
アスカは涙を流しながら、自嘲気味に笑った。
「『アスカは賢者のくせに、たまに靴下を左右逆に履く』……なんて、こんなの、世界を救う演算には1ビットも必要ないわ。でも……今の私には、神様の言葉より、この靴下の話の方がずっと……ずっと重要よ!」
純白のドレスが、黄金色の輝きを放ち始める。 リサの遺した「絆のパッチ」が、アスカの崩壊しかけた自我を無理やり繋ぎ止め、神の干渉を内側から押し返した。
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【ラストシーン:反逆の誓い】
神ステラは、信じられないものを見るように、初めてその整った眉を微かに潜めた。
「理解不能だわ。そんな低級な情緒の残滓で、世界の調律を拒むというの? 第108号、貴女は自分がどれほど効率の悪い選択をしているか、理解しているのかしら」
アスカは、レイの肩を借りてゆっくりと立ち上がった。 その瞳には、機械的な光を凌駕する、鋭く、けれど慈愛に満ちた「賢者」の光が宿っている。
「効率なんて、クソ食らえよ。……私はアスカ。古本屋『VOID』の店主で、偏屈な師匠の弟子。そして、レイのたった一人のパートナー。……その事実以外、今の私には一文字も必要ないわ」
アスカは魔導書をパチンと閉じ、ステラを真っ直ぐに見据えた。
「ステラ。貴女が言う『正しい世界』に、私の嫌いなピーマンの肉詰めはあるかしら? ……ないなら、そんな世界、私が上書き(ハッキング)してあげる」
氷の記録室に、力強い魔力が満ちていく。 もはや、ただ流されるだけの「部品」ではない。 リサの残り香を纏ったアスカは、神という名の完璧な孤独へと、最初の反逆を宣告した。




