第136話:見えない不協和音
アスカがリサから出生の秘密を聞いて数週間が経った。
あれから何事もなく、平和な時間は過ぎていた。
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【舞台:リサとゼノスの新居 ―― 祝福の余韻の中で】
古本屋『VOID』から数分の距離にある、レンガ造りの小さな家。そこがリサとゼノスの新しい城だった。窓から差し込む朝の光は、淹れたてのコーヒーの湯気と混ざり合い、部屋全体を黄金色の粒子で満たしている。
「アスカ様、そしてリサ。お待たせいたしました」
ゼノスが、使い慣れた執事の所作で皿を並べていく。香ばしく焼けた厚切りのパン、季節の野菜が溶け込んだ濃厚なスープ、そして半熟のオムレツ。そのどれもが、執事として、そして夫としての彼の献身が込められた完璧な一皿だった。
リサとゼノスの結婚後、4人で朝食を囲むのは毎日の日課になっていた。
「わあ、美味しそう……! ゼノスさん、今朝の朝食も本当に素敵ですね」
レイがロイヤルブルーのドレスの裾を整えながら、感嘆の声を上げる。彼女の瞳には、この新しい家族の形に対する純粋な喜びが溢れていた。
「当然よ。ゼノスの家事能力が低下したら、私の論理的査定は一気にマイナスへ転落するんだから」
アスカはいつものように不遜な態度で席に着いた。だが、その胸のうちは穏やかだった。
数週間前、リサから聞いた自分の出生の秘密。それを経てなお、こうして食卓を囲めることの「不合理な幸福」を、彼女は確かに噛み締めていた。
「さあ、冷めないうちに。アスカ、あなたの分にはハチミツを多めに入れておいたわよ」
リサが微笑み、スプーンを手にした。その瞬間だった。
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【舞台:視界の反転 ―― 蘇る地獄】
アスカがパンを口に運ぼうとした、その刹那。 視界の端で、銀色の火花が散った。
(……え?)
最初は、光の加減かと思った。だが、次の瞬間、平和な食卓の風景が、無機質な「情報の嵐」に浸食され始めた。
ゼノスが注ぐコーヒーの軌道が、重力加速度の数列へと変換される。 窓から差し込む日光が、屈折率を計算する複雑な幾何学模様に分解される。 リサの微笑みさえも、筋肉の収縮を制御する術式の羅列となり、剥き出しのデータとしてアスカの脳へ直接流れ込んできた。
「……あ……、あ……っ」
アスカの手から、カチャリと音がしてスプーンが落ちた。
「アスカ? どうしたの、顔色が悪いわよ」
リサの声が聞こえる。だが、その声さえも「音波の周波数データ」として知覚され、意味を持った言葉として脳が処理を拒絶する。
(止めて……。止まりなさい、計算を中止して……!)
アスカは両手で耳を塞いだ。だが、情報の流入は止まらない。かつて北の離宮の地下書庫で彼女を苛み続けた、あの「世界の悲鳴」が、十五年の時を経て再び彼女を捕らえたのだ。
「アスカ様! しっかりしてください!」
ゼノスが駆け寄り、彼女の肩を掴む。 その瞬間、アスカの視界を埋め尽くしていた術式が、一瞬だけ激しく火花を散らし、赤いエラーログを吐き出した。
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【舞台:亀裂 ―― 幸せへの不協和音】
「……っ、触らないで……!」
アスカはゼノスの手を、無意識に払い除けた。彼女の指先から、制御を失った銀色の魔力が放たれ、食卓の上の花瓶が粉々に砕け散った。
「キャッ……!」
レイが短い悲鳴を上げる。砕けたガラスの破片が、朝の光を反射して無情に床へ散らばった。
「アスカ……これ、は……」
リサが目を見開く。その瞳には、恐怖ではなく、深い絶望に近い悟りが宿っていた。
アスカは荒い息をつきながら、自分の手を見つめた。 情報の嵐は、一時的に止んでいた。だが、彼女の網膜には、今も「強制再起動」を待つ不気味な文字列が、薄く残像として焼き付いている。
「……リサ、聞こえるわ。どこからか呼び声が」
アスカの声は、震えていた。
「世界のシステムが、私を呼んでいる。端末としての機能を果たせって……。私の論理を、あいつらが上書きしようとしている……!」
「そんな……。あれほど幸せな式を挙げたばかりなのに……!」
レイがアスカの傍らに膝をつき、その震える手を握りしめようとする。だが、アスカはそれを拒むように、ゆっくりと立ち上がった。
「……ダメよ。この家に、私はいてはいけないわ。……リサ、私の計算は間違っていなかった。私は……最初から、幸せになるための変数として設計されていない」
「アスカ! そんなこと言わせないわ!」
リサが毅然とした声を張り上げた。だが、その頬を伝う一筋の涙を、アスカの鋭い目は見逃さなかった。
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【ラストシーン:遠い呼び声】
アスカは、誰の制止も聞かず、新居を飛び出した。 背後でリサとゼノスの叫び声が聞こえたが、それさえも今の彼女には、遠い星からの通信のように頼りなく感じられた。
一人、古本屋『VOID』へと続く路地を走り抜ける。 頭上では、澄み渡っていたはずの冬の空が、不気味な白銀色に染まり始めていた。
「……ニャオ」
足元に、シュシュが寄り添ってきた。彼の金色の瞳だけは、情報の嵐の中でも変わらぬ輝きを放っている。
「シュシュ……。私、壊れちゃうのかしら。リサがくれたこの心を、またあの情報の塵の中に、捨てなきゃいけないの?」
「アスカ様はアスカ様ですニャ。……どんなエラーが起きても、ボクが噛みついて止めてみせますニャ」
シュシュの言葉に、アスカは微かに唇を噛んだ。 だが、その時。 北の彼方から、風に乗って冷たい「歌」が届いた。それは、アスカという端末を初期化するための、残酷で美しい鎮魂歌。
アスカは、空を見上げた。 そこには、世界の論理を統べる巨大な数式が、巨大な円環となって出現し始めていた。平和な日常に、取り返しのつかない亀裂が入ったことを、誰もが確信した瞬間だった。




