第137話:氷河のささやき
【舞台:エルムの街 ―― 崩壊する論理】
異変は、静かに、しかし決定的な違和感として街を浸食し始めた。 アスカが古本屋『VOID』へ逃げ戻る道すがら、彼女の視界に映るエルムの街は、もはや彼女の知る「現実」ではなかった。
「……計算が、合わない」
アスカが喘ぐように呟く。 道端の噴水から噴き上がる水が、重力に従わず、空中で複雑な立方体の形に固まったまま静止している。街灯の魔石は、点灯していないにもかかわらず、不気味な黒い光を放ち、影を白く反転させていた。 行き交う人々は、自分の足が地面を透過し始めたことに気づき、パニックに陥っている。
「論理の狂いが、街全体に波及している……。私の、私の観測がバグを起こしているせいなの?」
「違いますニャ、アスカ様のせいじゃないですニャ。世界そのものが、アスカ様を引きずり戻そうとして、周囲の理を無理やり歪めているんですニャ!」
足元でシュシュが牙を剥き、北の空に向かって低く唸った。 北の地平線からは、巨大な白銀のカーテンのようなオーロラが立ち昇り、それは巨大な数式の螺旋となって空を覆い尽くそうとしていた。
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【舞台:古本屋『VOID』 ―― 決別の夜】
店内に駆け込んだアスカは、震える手でカウンターにある古びたトランクを取り出した。その中には、リサから譲り受けた数少ない魔導具と、レイと一緒に買い集めた旅の記録が詰まっている。
「アスカ! 待ちなさい!」
背後で扉が勢いよく開いた。追ってきたリサとゼノス、そして不安に顔を曇らせたレイが店になだれ込んでくる。
「一人で行くつもり!? 今のあなたの状態で行けば、あいつらに飲み込まれて、ただの『部品』に逆戻りよ!」
リサが叫ぶ。その瞳には、かつて北の離宮でアスカを抱きしめた時と同じ、悲痛な決意が宿っていた。
「……リサ。私の視界を見て。今、私の脳内には、エルムの街の消滅確率が毎秒0.0007%ずつ上昇しているデータが流れ込んでいるわ」
アスカは振り返らず、荷物を詰め込みながら冷徹な声で言った。
「私がここに留まれば、この街の因果関係はすべて崩壊する。建物は砂になり、人々の記憶は数列に上書きされる。……そんな論理、私が許さない」
「アスカ様、私が行きます。あなたが望むなら、世界の果てまで」
ゼノスが一歩前に出るが、アスカはそれを鋭い制止の言葉で遮った。
「ダメよ、ゼノス! あなたはリサを守るって誓ったでしょう。……それに、これは私の『初期化』の問題なの。他者の介入は、ただエラーを増大させるだけ。論理的に見て、私一人で行くのが最適解よ」
「……アスカ。そんな悲しい計算、しないでください」
レイが、震える声でアスカの袖を掴んだ。
「あんなに笑ったじゃないですか。家族になろうって、そう言ったじゃないですか……!」
レイの体温が、アスカの肌に伝わる。一瞬だけ、視界のノイズが凪いだ。 アスカは奥歯を噛み締め、強引にその手を振り払った。
「……ごめんなさい、レイ。私の演算機には、『家族』という変数は重すぎたみたい」
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【舞台:街の境界 ―― 立ちはだかる影】
アスカはシュシュを連れ、街の北門へと向かった。 街の外れ、草木が凍りつき、幾何学的な結晶へと変貌した不気味な荒野が広がっている。 一歩、街の外へ踏み出そうとしたその時。
「……そこを通すわけにはいかないニャ」
暗闇から、一つの影が躍り出た。 それは、アスカがよく知る姿――シュシュだった。 しかし、アスカの隣にいるシュシュではない。目の前に立つのは、リサの魔力で編み上げられた、巨大で威厳のある「本来の姿」を解放した精霊としてのシュシュだ。
「シュシュ……? 何をしているの。そこをどきなさい」
「ダメだニャ、アスカ。リサから頼まれているんだニャ。『もしお前が一人で死に急ごうとしたら、力ずくでも気絶させて連れ戻せ』ってニャ」
「……非論理的だわ。あなたまで私の邪魔をするの?」
「邪魔じゃないニャ、保護だニャ! お前は賢者のくせに、自分の価値を計算間違いしているんだニャ! お前がいなくなったら、誰が俺様にブラッシングをするんだニャ! 誰がリサの小言を聞くんだニャ!」
精霊のシュシュの咆哮と共に、周囲の空間が激しく振動した。北からの「ささやき」に呼応するように、精霊のシュシュの体からも銀色の雷光が溢れ出す。
「……どきなさい、シュシュ。これは私の意志よ」
アスカの手元に、銀色の魔力が集束し、かつてないほど冷徹な光を放った。
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【ラストシーン:絶望の旋律】
対峙する二人。だが、その時。 北の空から、すべてを圧殺するような「声」が響き渡った。
『――帰還セヨ。第108号、調整端末アスカ。エラーハ修正サレタ。純粋ナル論理ヘト戻ル時ガ来タ』
その声が響いた瞬間、アスカの膝がガクリと折れた。 視界が完全に白銀の術式で埋め尽くされる。精霊のシュシュは跡形もなくかき消された。
「あ……あああああ……っ!」
アスカの目から、感情の光が急速に失われていく。 彼女の指先が、自分の意思とは無関係に動き、空中に巨大な帰還命令の数式を書き込み始めた。
「アスカ様! 目を覚ますニャ!」
シュシュが駆け寄ろうとするが、アスカの周囲に展開された絶大な拒絶結界が、彼を弾き飛ばした。
アスカは、人形のような虚ろな瞳で、北の氷河を見つめた。 そこには、彼女を迎え入れるための、巨大な光の門が開こうとしている。
「……リサ。レイ。……私は、もう……」
アスカの声は、風に消えた。 彼女の足元から、世界そのものが剥がれ落ちていく。 街の灯火が遠ざかり、氷河の冷たいささやきが、彼女の魂を完全に支配しようとしていた。




