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第135話:受け継がれる意志

【舞台:古本屋『VOID』 ―― 祝祭の翌朝】


 エルムの街を包む朝の光は、昨日の喧騒を優しく塗り替えていた。古本屋『VOID』の店内には、微かに花の香りが残り、カウンターにはアスカが整理した式の収支報告書と、数式が並んだ羊皮紙が整然と置かれている。


 アスカは無意識に、自分の掌を見つめていた。思考だけで事象を改変するこの力。昨日の結婚式でリサに「娘」と呼ばれた瞬間、その異能の根源にある「記憶」が、かつてないほど鮮明に彼女の脳裏で拍動していた。


「……おはよう、アスカ。もう店を開ける準備?」


 階段を下りてきたのは、いつもの機能的な魔導師の装いに戻ったリサだった。だが、その瞳には新妻としての穏やかな光と、それ以上に深い、ある決意の色が宿っている。


「リサ……。論理的な後片付けをしていただけよ。あなたは? ゼノスと一緒に新しい生活を始める準備はどうなっているの」


「彼なら、新居で朝食を調えているわ。彼は、私にあなたと二人で話す時間を作ってくれたのよ」


 リサはカウンター越しにアスカの隣へ腰掛けた。カウンターの上では、シュシュが前足を折り畳み、金色の瞳でじっと二人を見つめている。


「アスカ。……昨日、あなたは私を心から祝ってくれた。だからこそ、今日は師匠としてではなく、あなたをあの場所から連れ出した一人の人間として、本当のことを話しておきたいの」


 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【舞台:語られる「北の離宮」の真実】


 店内の空気が、急激に密度を増した。シュシュが「ニャオ……」と短く鳴き、アスカの手元に歩み寄る。アスカは筆を置き、リサの言葉を待った。


「……覚えているかしら。王都・北の離宮。その地下深くにある、禁忌の魔導書庫」


 リサの問いに、アスカは目を閉じ、あの「情報の嵐」の記憶を呼び起こした。


「……ええ。忘れるはずがないわ。あそこは、私にとって地獄そのものだった。視界に映るすべてが剥き出しの術式として流れ込み、風の揺らぎは数列に、光の屈折は幾何学模様になって、脳を休む間もなく叩き続けていた」


 アスカの声が微かに震える。


「私は耳を塞いでいたけれど、情報の嵐は止まらなかった。魔法は特権なんかじゃない。ただ世界というシステムが垂れ流す、耐え難い『不快なノイズ』だった」


「そうよ、アスカ。あなたはあそこで、世界のすべての情報を強制的に受信させられる『端末』として生かされていた」


 リサは、自らの掌を握りしめるようにして言葉を繋いだ。


「十五年前、私はその異常な魔力の震源地を突き止めるために地下書庫へ踏み込んだわ。幾重にも張り巡らされた防御結界を、私は紙切れのように破り捨てて進んだ。そして、最深部でうずくまる、小さなあなたを見つけたのよ」


 リサの瞳に、当時の光景が浮かぶ。


「私があなたに触れた瞬間……あなたの脳内を埋め尽くしていた狂ったような術式の羅列が、一瞬で溶けるように消え去った。あなたは目を見開いて、私の金色の髪から漂う太陽の匂いを、生まれて初めて知ったのよね」


 アスカの指先が、リサの手の上に重なった。


「……ええ。リサの手の温もり、ドクドクと響く心臓の音。それだけが、私の世界からあのノイズを消し去ってくれた。私は自分の名前をアスカだと告げ、あなたにすがった」


 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【舞台:不完全という名の「魂」】


「私はあの日、あなたを連れ出し、この世界が管理していた『精密な端末』を壊してしまったわ」


 リサは自嘲気味に笑い、けれどすぐに強くアスカの瞳を見つめ返した。


「でもね、アスカ。ノイズが消えた後のあなたは、ただの部品じゃなかった。私の服を掴んで離さず、外の世界の不合理な美しさに、何度も驚いて笑った。システムには存在しない『感情』という名の致命的なエラー。それが、あなたの魂になったのよ」


「その通りですニャ。アスカ様はただの部品にしては、ボクへのブラッシングが下手すぎるし、こだわりが強すぎますニャ。でも、それがアスカ様ですニャ」


 シュシュが空気を和ませるように喉を鳴らした。


「アスカ。私からあなたに託すのは、魔法の技術じゃない。……何が起きても、自分の論理を書き換えさせないという『意志』よ」


 リサはアスカの目をしっかりと見つめる。


「あなたがどこで生まれ、なぜあの場所にいたのか、いろいろ調べたけど、何もわからなかった......これから先、あなたが生まれた場所の根源オリジンが、あなたを再び『端末』に戻そうとするかもしれない。でも忘れないで。あなたは『VOID』の店主であり、私の娘。世界があなたを『修正対象』だと言うなら、私がその理論ごと世界を書き換えてあげる」


 アスカの頬を一筋の涙が伝った。 それは、昨日流した「寂しさ」の涙ではなく、自分の不完全な存在を肯定された、「誇り」の涙だった。


 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【ラストシーン:開かれた扉】


「……わかったわ、リサ。私の出自がどれほど非論理的なものであろうと、私はあなたの弟子であり……娘よ。私の演算に、もう迷いはないわ」


 アスカは涙を拭い、立ち上がった。その背筋は、昨日よりもずっと凛として、力強い。


「いい返事ですニャ。さあ、いつまでも湿っぽいのは終わりですニャ。お腹が減りましたニャ!」


 シュシュの言葉に応えるように、店の扉が勢いよく開いた。


「アスカ、リサさん! おはようございます!」


 レイが朝日を背負って、弾けるような笑顔で飛び込んできた。ロイヤルブルーのドレスが、店の古い床に鮮やかな色彩を添える。


「ゼノスさんが、お二人を呼んでくるようにって。新居で焼きたてのパンとスープが待っていますよ!」


「レイ、今行くわ。……リサ、ゼノスの料理が予定の栄養バランスを逸脱していないか、厳しく査定しに行きましょう」


「ふふ、そうね。今日からは『妻』として、遠慮なくいかせてもらうわよ」


 二人が並んで店を出る。 古本屋『VOID』の書棚の影で、アスカの視界をかつて埋め尽くした術式に似た、不気味な黄金色の光を放つ古い天球儀が、一瞬だけ瞬き、そして静かに沈黙した。 北の氷河から届く不協和音が、静かに、確実に大きくなり始めていた。


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